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 烏龍茶に入っている氷が、舌に触れた。口の中で遊ばせるように転がしてから、歯で噛んだ。奥歯の辺りでごろごろ鳴って、耳下腺の手前に音が残っている。  奇妙な組み合わせで、とある店に来ていた。三矢さんとはときどき訪れることはあったが、他はあまりない。三人という扱い辛い人数のせいか、普段座るカウンターではなくテーブル席に座った。もっとも、その席を選んだのは彼だったのだけれど。なんでこんなことになったんだっけ? ああそうだ。  今から浅野とメシ行こうと思ってて近くにいたから寄ったんです。良かったら一緒にどうですか?  三矢さんは、今まで見たことのない浮ついた笑みを貼り付けて遥さんを誘った。聞いた瞬間、うわあ性格悪っ、と思った。彼の顔面に向かって瞬きもせずに眼差しを向けると、能面を貼り付けたようないやらしい表情をしていた。にこりと目を細めていたのは、敵意を隠すためだろうか。余裕を含ませた笑みと、教師という職業柄か、確実に一段上に上がって他者を見下ろすような顔つきが不快だった。ねっとりした湿度が彼に絡んでいて、すげえ不細工、とだけ思う。店に入ってテーブルにつくと、彼は遥さんの隣に座った。うわ性格悪、と思った。本日二度目だ。その真向かいに座ると、三矢さんと目が合った。彼は今もなお、なめっこさを上塗りした表情を見せている。すぐに逸らされたその目は、彼女を見た。彼はきりっとした紳士的な仕草で、遥さんにメニューを渡した。 「あなたは何を飲みますか? 地ビールが美味しいんですよ、オレたちはよく来てるから。なあ、浅野」  口調は柔らかいのに、眼光には鋭さと、ほんの少しだけ卑しさが滲んでいる。特に後半部分だ。強調しているところが、さらに追い討ちをかけている。 「アルトにします」  ここに来て、彼女の声を初めて聞いた。普段と変わりなく、安定した口調だった。ついさっき、ほんの三十分にも満たない時間だ。事務所にいたとき、ヒステリックにきんきんとした音響で俺を責め立てていたあの声が、繕ったように穏やかなものに変わっている。その声には、聞き覚えがあった。昔々、聞いていたものだった。かわいいー、などと猫撫で声を出したかと思えば急に気色ばんで、忙しなく叫び出す。あんたが! あんたのせいで! あんたがいるから! かなぐって抑揚のしっかりした、よく知る女の声に似ていた。断片的にしか覚えていないのに、言葉の端々や口調、その大きさに耳を塞いだこと、不愉快というよりもっと違うものがあったのは脳裏に焼きついている。この人は自分を憎んでいるから叫ぶんだ。撒かれた種から芽が出て膨らむ日々を、横目で見て通り過ぎるみたいに順に、それは徐々に根を張っていった。  にこりと笑って、遥さんは三矢さんを見ている。彼は親しげに、アルトいいですよね、オレも好きです、などと笑顔を返している。彼の職場での顔を、横から覗き込んだようだった。 「すみません、急にお誘いして」  三矢さんの嫌味っけを隠した口調に、遥さんは首を振った。ゆっくり瞬きをしたせいか、瞼が揺れる。 「オレ、浅野とは幼馴染で、今は同居人なんです。引っ越す時期が重なって、家賃安くなるし、ルームシェアしてるんですよ」  そうですか、と言って笑顔を崩さない彼女は今ごろ、何を考えて何を思い、不穏さを微塵にも滲ませないのだろうか。幼馴染の同居人、この言葉に不審な点が一切見受けられないからか。この先も、これを貫き通せば、おそらくは。 「あんたシュバルツだっけ?」  小さく息を吐き、三矢さんに問うた。 「うん、そう」  彼の目は、じっとりと湿っている。電球色だけの照明器具で塗り尽くされた店内は、彼の少しだけ淡い瞳がやけに強調されて見えた。オーダーを取りに来たスタッフに、アルト、シュバルツ、烏龍茶を注文はした。食事関連は彼らに任せた。何を口に入れようが、味付けはその味以上でも以下でもないのだから。  三矢さんはその後も、饒舌に会話を進めた。珍しく丁寧に食事をして、不躾な言葉や態度など一切見せずに遥さんに話を振った。おいてめえ、この女、てめえのことすげえ嫌いムカつくふざっけんな! 予想され得る台詞も口調も彼の口から飛び出ることはなく、喋り方も丁寧というより、適度に敬語で適度に崩していた。側から見れば好感が持てるだろうが、同時に訝しくもあった。視線や面持ちに、じんわり首を絞めていくような窮屈さ、声や口調には、優しく緩やかであれど喉を不意に突かれる違和感を感じた。遥さんは愛想良く笑っている。繋がれる言葉は些細なものの連続だった。へえ経理の仕事なんだオレは数字苦手で。そう言って三矢さんは、わざとらしく今知ったように話している。べったりとした上っ面だけの会話は、店内を緩やかに走る音楽とともに流れて消えた。ときおり、くすくすと軽い調子の笑い声が紛れ込んできて、あまりにも平坦な調子でうんざりする。俺は一度も口を挟まず、黙って烏龍茶を飲んだ。ときどき、氷が口の中に入る。ひやりとした温度が、舌に触れる。転がすと口の中の粘膜が心地良かった。そこだけが、安全地帯のようで。  脛に何かが当たる。瞬きをした。また当たる。彼の爪先だった。こつこつ、こつ、こつこつこつ、としつこく何度も蹴られた。段々と強くなる力を脛に受け、聞こえないように舌打ちをする。しつこいめんどくせえ、息を一度吐いて、席を立った。 「ちょっと煙草」  店内は二階建てで、二階の席に座っていた。歩くと木材がぎしぎしと軋んで鳴った。えーんえーんこわいよー、とただの感情論を通して、きんきんした声で叫んで泣き喚けたらどれだけいいだろう。過去、幼い自分に手を差し伸ばしてくれた幼馴染は今、粘ついた笑顔と奥に潜む執着に満ちている。外に出ると、ひゅうっと吹いたのは、まさに木枯らしだった。木の葉が枯れかける匂いがした。ポケットから煙草を取り出し、ライターを点ける。一度では点かず、二度三度鳴らした。ようやく灯る小さな火に、煙草を寄せる。
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