1-1

1/1
106人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

1-1

 同居人はメシを作って待っていない。  昼休みに必ず鳴る着信音は、あの人からメールが届く音だ。午後十二時半から一時の間に必ず鳴る。毎日鳴るのが鬱陶しくて、朝から晩まで終始バイブ音に変えてしまった。今日は遅い今日は早く帰れそうメシは要る要らない、なんの変哲のないメールに、いつも「了解しました」と返している。ただ、「メシは要らない」と書かれてあることは、よほどのことがない限り、ない。あの人は大概、帰宅してから夕食を食べる。俺が作ったものを。 「浅野さん、ご飯食べて帰りませんか?」  経理の遥さんは、残業で一緒になると、まれに食事に誘ってくる。彼女はそういうときいつも、おかしな顔をする。  永瀬モーターで自動車整備以外に総務雑務を任されている自分と、経理の彼女の残業が重なることは多々あった。斜め前に座る彼女は、無表情もしくはときどき眉間に皺を寄せ、いつも真面目に仕事をこなしている。周囲にほど緩く優しく接している彼女は、人付き合いの距離の測り方を熟知していた。よく人間を見ていて、間合いの取り方を心得ているように見える。おそらく誰も信用していない。警戒心が強そうだ。関わり方が不得手な方の、苦手なタイプだった。昔の、子供の頃の自分を見ているようでもあったし、何より、母親によく似ていた。 「あー……、同居人がメシ作ってるんで、すみません」 「そうですか」 「はい」 「お疲れ様でした」  お疲れさんでした、口から自然と流れ出る言葉に彼女は、小さく会釈をして背を向けた。使い勝手の良さそうなトートバッグを持ち、事務所を出て行く。ぎぎ、と鳴るドアの音が耳を素通りして、油差した方がいいかもな、などと考えた。外はもう真っ暗なことが妙に目について、もう一度パソコンに向いた。ああ腹減ったビール飲みたい、喉に抜ける爽快感が、異常なほど欲しくなった。  彼女は今日も、おかしな顔をしていた。誘いを断られて、どこか安堵しているような。それでいて挑むような。なんかと戦ってるみたいだ、毎回そう思う。  嘘を吐いた。食事に誘われるたびにいつも吐いている。同居人は、メシを作って待ってなんていない。  帰宅したのは、午後八時を回った頃だった。玄関を開けると、灯りが漏れている。彼の靴は相変わらず揃えられていなくて、ふと息を吐いた。何度言っても直らない。ここまでくると言う気もなくなって、諦めざるを得なくなる。靴揃えなよ、うん明日から、手に取るように浮かんでくる会話に、為されてもいないのにもかかわらず呆れてしまった。揃えられていない靴と生活観の違いに苦笑しつつ、玄関の右手側にある洗面所で手を洗った。首が痛くて、一度首を回した。風呂だけは沸かしてあるのを知り、へえ、と少しだけ感心した。あの人が普段、あまりにも家事をしないからだ。リビングに入ると、ぱっと急に明るく見える。目の前がちかちかして、何度か瞬きをしてしまう。電灯変えた? と考えたころ、おかえり、と聞こえる。 「あ、ただいま」  キッチンの冷蔵庫辺りから声がして、そこに目をやりながら答えると彼は、ビールを片手に持って立っていた。三矢さんは、お疲れーと言って笑いながら、缶に口をつける。 「なあ」  電灯変えた? 続いて口から出かけて、咄嗟に閉じた。部屋が明るいのは当然だった。彼が先に帰宅していれば、室内には論なく照明が灯っている。正当な言い訳みたいな考え方に、いっそう喉が渇いた。何? と三矢さんが聞いた。首を振り、冷蔵庫を開けた。 「腹減ったなー、ビール飲も」 「今日カレーにしねえ?」 「……ってあんた作んねえだろ」 「いいじゃん、作ってよ。ルーあったし」  すぐに缶ビールを取り出して、プルタブに指をかけた。この音がさらにそそる。構わず口をつけ、一息ついてからすでに、カレーを作れるかどうか冷蔵庫の中を覗いてしまう。鶏肉はあった。玉ねぎもじゃがいももにんじんもあった。ルーも辛口が残っている。おそらく彼は、これを確認した上で言ってきたに違いない。カレーにしねえ? と。しょっちゅうだ。この人は自分で作るということを、ほぼしない。まれに気が向いたら、その程度の割合でしか、料理をしない。食べられると信じている。昔から。計算しているのだ。打算的で、自分勝手で浅ましい。 「食って帰ってくりゃ良かった」 「は? 何それどういう意味だよ」 「そのまんまだよめんどくせえな」 「何その言い方、腹立つ」 「あーうるせ。煙草吸ってこよ」  ついて来んなよ、と彼に念押しして、レースカーテンのかかった窓に近づいた。大きな窓。以前住んでいた市営住宅も窓が大きかった記憶は確かにあって、このマンションも同じくらいの大きさだ。そうっと手を伸ばし、繊細な作りでもなんでもないカーテンに手をやった。鍵を開けて窓を引く。するりと開いてしまうそこに、ここは新築で真新しいマンションだと改めて気づかされる。  外は肌寒かった。秋が終わりに近づく、雑多なものが枯れかける匂いが抜ける。少し黴臭くて、古めかしい。祖母の家の香りに近くて、嫌いではなかった。時々ひゅうっと通る風に目を眇め、デニムのポケットに入れていた煙草を取り出した。火を点けると同時に背後から、すーっと窓を引く音がする。あまりにもゆっくり鳴ったので、同じように静かに振り向いた。誰が来たかなんてわかっているのに。彼はどこか決まりが悪そうな表情をしていて、思わず吹き出してしまう。煙草の煙をちょうど吐き出していたところで、白くけぶったものが一気に舞った。飛び散ったそれは、すぐに広がって消える。 「怒んなよ、手伝うって」 「あんたのその、手伝うって概念をどうにかしたほうがいいよ。自分が食うもんだろ?」 「やっぱ怒ってんじゃん」  目を伏せてゆっくりと瞬きをして、微かに睫毛を揺らす。自分だって悪いくせに、相手に罪悪感まで押し付けようとする。俺が悪いの? と無条件に思わせる。無意識か意識してかは知らないけれど、この人がそういうふうに見せる所作はいつも、寂しそうだった。毎日一緒にいて、同じものを食べてもう、半年以上過ぎているのに。  コウちゃんは、肩を寄せても唇を合わせても毎日同じ食事をしても、なぜだか少しだけ憂いて見せる。計算か否か、いつもわからなくなる。 「怒ってないよ」  煙草を灰皿に押し付け、手を伸ばして頭を撫でた。以前は見上げていた目線が変わった。抱き締めても簡単に収まるようになった。変わらないのは、手が届きやすくなった彼の髪の毛が柔らかいこと。三矢さんは一瞬だけ表情を緩め、また、カレー食いたい、と言った。だからもう、作るっつーの。  ついこの間、三矢さんは圧力鍋を買ってきた。あんた料理しねえだろ、と言うと、おまえが楽だろ? などと返す。だからあんたもやりなさいよって話をしているのだけれど、彼はその日終始機嫌が良かったので嫌味も通じない。ただ、この圧力鍋のおかげで、カレーが簡単に作れるようになった。食べるまで三十分も掛からなくなる。「手伝う」の通り、彼も野菜の皮を剥いたり切ったりした。鶏肉を炒めている間に作業をしていたので、確かに「手伝って」くれて捗った。タイマーをかけている間に、何味? なんて聞いてくる。ルーの味、と言うと彼は、ふふ、だか、ひひ、だか、とにかく気味が悪い笑い方をしたので肘で小突いた。あのさあインスタントコーヒーちょっと入れると美味いらしいよ? 三矢さんはそうして、ときどき変な知恵を披露する。あんたはそういう要らん知識だけはあるよね、キッチンに立ちながらビールを飲んで、からかうように言った。目だけでインスタントコーヒーの有無を確認して、結局入れた。小匙一杯だけ。  いただきます、と手を合わせたのは、午後九時前だった。八時五十分、微妙な時間だ。ビールは既に一本開けていて、次は焼酎に決めた。 「なあ」 「んー?」  カレーを一口分掬って、口の中に放り込んだ。ルーの味、普通に悪くない味だ。インスタントコーヒーの成果はわからない。 「残業って、一人でしてんの?」  また突拍子もないことをこの人は、いきなり聞く。 「なんでまたそんな話?」 「だっておまえ、よく残業残業言ってっけど、一人でしてんなら寂しいじゃん」 「仕事に寂しい寂しくないってあんの?」  ねえだろなにそれ、笑ってしまって、焼酎を入れたグラスに口を付ける。氷の音が繊細で、結露する前のガラスの冷たさを際立たせる。からんからん、と無駄に鳴らしてしまった。 「オレもしょっちゅう残業するけど、最後一人で残ると早く帰ろーって思うよ」  へえ、と小さく言って、カレーを掬う。ルーの味、ふふ、ひひ、あの人の気味が悪い笑い声。変に博識ぶってインスタントコーヒーなどと言い出す。思い出すと笑ってしまって、なんだよ、と聞かれる。首を振り、なんでもないことを示した。  残業の話をされ、不意に思い出した。ご飯食べて帰りませんか? という社交辞令を、何度聞いただろう。彼女は断られるのを、知っているだろうに。 「一人ではしてない」 「は?」 「残業。一人のときもあるけど、もう一人いることが多い」 「へえ、誰と一緒にやってんの?」  あ、と思った。面倒なことになったかもしれない。やましいことも後ろめたいことも一切ないのに、押し寄せてくる諍いの欠片を一気に拾い上げたようだった。食事の誘いに乗る気もなければ、嘘まで吐いているのだ。作られていない食事を口実に、毎回断っている。同居人はメシを作って待っていない。圧力鍋を買うだけだ。ときどき風呂を沸かしたり、カレーにインスタントコーヒーなどと蘊蓄を披露するだけだ。スプーンでカレーを掬って口に入れる前で、動きを一旦止めてしまった。彼は意外と目敏く、繊細であざとくて浅ましい。こっちの変化に敏感だ。掬ったカレーを早く口に入れれば通り過ぎるかなあ、なんて。 「浅野ってカメレオンみたいだよな」 「は? なに急に」 「カメレオンって、敵から自分を守るために色を変えるんじゃないんだよ」  呆気に取られ、放置されていたスプーンが急に気がかった。ようやく口をつけると、少しだけ冷たい。 「光や熱を浴びて変わるんだって」 「へえ、よく知ってんね」  彼は得意気に、口元を引き上げる。 「しかも、カメレオンが自分の目で見て色を変化させるんじゃないんだよ。体の皮膚が物体の光の反射を受けて変化させるんだってさ」 「それってカメレオンに直接聞いたの?」 「聞けるわけねえじゃん」  はは、と笑ったので、釣られて笑ってしまう。 「で、なんで俺がカメレオンなの」 「自分で色を変えないところ。相手によって変える皮膚の色とか、もう絶対匂いも変わってる。決まってる。そんなんただの隙じゃん。結果、外敵から身を守ってねえよなーって話。なあ?」  彼はまた、ふふ、と笑った。今度は、ひひ、を交えた気色悪い笑い方はしない。口を閉じ、じっと見据えられる。じーっと。数秒間射抜かれ、瞳の真ん中を捉えられたようで、息を飲んだ。 「オレ、あのねーちゃん嫌いなんだよね。前からずっと、ムカついてた」  だってあの女、おまえのこと好きだろ?  コウちゃんのそういう言い方、本当に意地が悪い。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!