初恋の女の子と結婚したのよ

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もう十五年以上も前のことなのに青い色が追い出されていく空を見るといつも思い出す。 もう二度と会えない彼のことを。 彼と出会ったのは中学三年生の二学期の十月の終わりだった。 私は当時学校が終わるとまっすぐ家に帰るのが嫌で嫌でたまらなかった。 友達は皆放課後は塾に行っていたけれど、私は元々成績は良かったし、無理のない所を受験しようと思っていたから猛勉強の必要もなく、今にして思えば贅沢な話だけど、時間を持て余していた。 家に帰りたくなかったのは、お酒を飲んでいる母を見たくなかったからだ。 当時の母はパートを終え買い物を済ませ家に帰るとお風呂に入り、夕方の四時から夜の十時までテレビを見ながらお酒を飲むという生活をしていた。 私が小学校の三年生の時、父が単身赴任で福岡に行った頃から母は駅前のスーパーのデリカで朝の八時からお昼の三時まで働き出した。 それからしばらくして母は料理をしなくなり、スーパーのお総菜や揚げ物やお刺身で食事を済ませるようになった。 口数は少なくなり、私の話も聞いてくれなくなった。 お酒をやめてと言えば良かったんだろうけど、母の口はいつも無機質な缶に覆われていて何も言えなかった。 父はゴールデンウィークとお盆とお正月は帰って来たけど、夕方からずっとお酒ばかり飲んでいる母に何か言うわけでもなく、お寿司を買ってきたり、ちょっとお高いお店の仕出し弁当を注文してくれたり、すき焼きをしてくれたりするだけで、父も母に対して言葉を失っているだけだった。 不思議なことにあれだけ飲んでいても母は朝になると平気な顔をして洗濯ものを干してからパートに行ったので、私はいつも飢えてもいなかったし、家だって綺麗で、毎日清潔な衣類を身に着け、何の問題もなく普通に生活していた。   部活をしていた一学期までは良かった。 毎日遅くまで練習があったから、夜ご飯を食べ、お風呂に入って寝る、そんな毎日だった。 行き場のない放課後に私が始めたのは亡くなった祖母の家に行くということだった。 学校の帰り道に亡くなった祖母の家はあり、伯母さんが定年退職になったら住むと言うので、売りに出さずにそのままにしてあり、時々母が草むしりに行ったりしていたので、家には合鍵があった。 私はそれをこっそりと持ち出し、鍵を開けて、二階に上がり、漫画を読んだり昼寝をしたりして快適に過ごした。 そんなことを続けていたある日の放課後、彼はいた。 その日何を思ったのか私は庭から入った。 何か予感めいたものがあったのだろうか、もうわからない。 縁側の下にまるで糸の切れた人形のようにぺたりと座る彼がいた。 最初に目に入ったのは銀色の髪だった。 次は白い肌、それは透き通るようだと表現するのが一番ふさわしかった。 瞳は固く閉ざされていた。 首から下はロボットアニメでしか見たことがない黒いパイロットスーツのようなものに包まれていた。 それよりも私が目を見張ったのは、その彼の腕がちぎれかけていて、腕と腕の間が黒いコードのようなもので繋がっていたことだった。 よく見ると両脚もそうだった。 皮膚や睫毛の感じがどう見ても人間のそれだったので、よくできた人形でないことは確認するまでもなかった。 警察を呼ばなければならないと思った。 でも私は呼ばなかった。 この私の避難所に誰も立ち入って欲しくなかった。 私にはどうしても必要な世界だった。 私は自分でも驚くべき行動に出た。 彼を背負い鍵を開け家に入った。 彼は重さなどないかのように軽かった。 私は悠々と彼を背負い、二階に上がり、ソファに彼を寝かせ、いつものようにカーテンを開け、まだ光が差している外を受け入れた。 私はソファの前に座り込み、じっと彼を見つめた。 何もする気にはならなかった。 暫くすると彼は目を覚ました。 瞳の色は真っ赤だった。 それは詩的なものではなく、まるで信号機のような確実さと実用さを兼ね備えている様に見えた。 その色は私が当時はまっていた漫画の主人公のライバル役の男の子の瞳と同じ色だった。 髪の色も同じだった、ツリ目なところも。 彼を実写化したらこうだろうなと思わせ、私は思わず軽く震えた。 私は彼に話しかけた。 「貴方は何処から来たの?」 「貴方はサイボーグなの?」 「年は?」 「名前は?」 「腕は大丈夫なの?」 「痛い?」 「私の言葉わかる?」 彼は何も言わなかった。 彼は辺りを見回し、私をじっと見ると目を瞑り眠った。 私は空の色が変わるとカーテンを閉めて、階段を降り家に帰った。 家に帰るといつものように母は発泡酒を飲みながら、コロッケを齧っていた。 発泡酒、焼酎、発泡酒、〆にビールを飲み母は寝るといういつも通りの一日の終わりだった。 ただ私だけはまるで世界から隔絶されたようなものを感じていた。 昨日とはもう違う日常、私だけしか知らない、私だけの小さな世界の秘密、そんな鼓動の騒がしさを夜通しずっと噛みしめていた。 放課後が待ちきれなかった。 授業が終わると駆け出し、スーパーに寄ってポカリスエットとウィダインゼリーを買った。 鍵を開け、二階までの階段を一段一段数えながら登った。 彼は眠っていた。 カーテンを開けると、目を覚ましたので、ポカリスエットを飲まそうとペットボトルのキャップを開け、ストローをさし、彼の口元に持っていったけど、彼は何か一言だけ言い、首を振った。 「飲まない?」 彼は何も言わなかったので、私は自分でそのままポカリスエットを飲んでみせた。 また彼は何か言ったけど私には何を言っているのかわからなかった。 腕も脚も相変わらず痛々しく、黒いコードが剥きだしになっていて、自分がしていることは彼を苦しめているのではないかと俄かに恐ろしくなった。 「ねえ、大丈夫?」 「何かしてほしいことはある?」 「私に何かできることはある?」 彼は何も言わず目を閉じたけど、私はひたすら話しかけた。 聞きたいことも尽きてしまったので、仕方がなく自分の話をした。 名前、受験生であること、友達のこと、母のことなどを。 空はもう青でもなく赤でもなくなっていたので私は帰った。 いつも通り母は発泡酒を飲みながら大学芋をつついていた。 その夜は昨日の奇妙な高揚と選ばれし者であるかのような厚かましい自負は吹き飛んで、どうしようもない空虚な不安に苛まれた。 これからどうしたらいいのだろう。 彼をどうしたらいいのか、誰に言えばいいのか、とりとめもないことばかり考えては消え、いつの間にか眠っていたけど答えは出るはずもなかった。 朝になり、いつも通り母が買っておいてくれた食パンと、トマトのカップスープを飲んで学校へ行った。 授業中も彼のことを考えたけれど、何もできることはないという結論に達した。 もうこうなったら誰かに暴かれるまで彼をあのままにしておこうと思った。 決意を固め、授業が終わると学校を飛び出した。 そろりそろりと階段を上がると彼はいた。 カーテンを開け、ソファに寝転がりながら、私が置いていった漫画を読んでいた。 驚くことにちぎれかけていた腕も脚も何事もなかったかのように綺麗に繋がっていた。 彼は私に気づくと何か言った。 でも私は相変わらずわからなかった。 「漫画面白い?」 彼は私をちらりと見ると再び漫画に目線を落とした。 彼はわかっているのだろうか。 字が読めなくても絵で伝わるものがあるのだろうか。 私は月が出始めるまで漫画を読む彼を見つめていた。   次の日は土曜日だったので私は朝から彼に漫画を届けた。 彼が読んでいたのは私が置いていった三十八巻だったので、私は一巻を彼に渡し、彼が一冊読むごとに続きを渡していった。 その合間に英単語を覚えた。 時々彼の笑ったような声が聞こえたので彼が読んでいるページを覗き込んだけど、彼が何処で笑ったのかはまるで分らなかった。 それでも彼が私の大好きだった漫画を読んでくれていることが嬉しく、私は彼が理解できているかもわからないのに、一方的に好きなシーンやセリフやコマ割の話をした。 私は家から持ってきた菓子パンやチョコレートを彼の前に広げてみたけど、彼は首を振り何か言ったけど、決して口にしようとはしなかった。 部屋に降り注ぐ自然の灯りが消えるまで彼といた。 次の日の日曜日もそうして過ごした。 月曜日の放課後、祖母の家に行き階段を上がると彼はソファに寝転がり漫画を読んでいた。 彼が最初に読んでいた三十八巻だった。 「もうすぐ三十九巻が出るよ」 私はそう言った。 「この後二人どうなるんだろうね?上手くいってほしいな」 彼が伝わってなくても、伝わっててもどうでも良かった。 ただこの誰にも邪魔されない二人だけの時間がずっと続けばいいと思ってしまっていた。 習慣になるには短すぎる時間だったのに、傲慢で子供で独りよがりだった十四歳の私は何も考えずそう思っていた。 夜の寸前まで一緒にいた。 夕焼けが終わる頃私は立ち上がり「そろそろ帰るね」と言った。 彼はソファから身を起こし、私に手の平を差し出した。 私は何故だかその手を取れなかった。 機械の手だったから? そうじゃなく、この手を取れば何かが終わってしまうと思った。 それが何なのかは、その時はわからなかった。 でも今はわかる。 私達はしばらく見つめ合った。 彼は何も言わず、手を下ろし、ソファに寝転がり瞳を閉じた。 私は「また明日ね」と言い階段を降りた。 家に帰ると母がおでんのがんもどきを頬張り、百円ショップで買ったプラスチックのコップで焼酎を呷っていた。 次の日祖母の家に行くと二階のカーテンは閉ざされていて、ソファの下に三十八冊あった漫画が一巻から順に行儀よく積まれていた。 それからずっと夜が一番近くなる空を見るたびに名前すら知らない彼を思い出す日々が続いた。 その空は帰り道の色で、彼との時間の終わりを告げる色だった。 あの手を取っていたらと何度も思った。 特に高校時代はずっとそうだった。 私が大学に入ると母は遂に身体を壊し、長い入院生活を終え、パートを辞め、お酒も止めた。 父は単身赴任を終え、帰ってくると週末のたびに釣りに行くようになった。 父が鯛やつばすや鯵などを家でさばく様になると、母は鯛の兜煮や鯵でだしを取ったお味噌汁などをつくるようになり、朝ごはんもいつの間にかお味噌汁とご飯と焼鮭と納豆が定番となり、コロッケや天ぷらも家で揚げるようになった。 母はお弁当も作る様になり、私が大学から帰ると今日の朝ドラの大まかなあらすじや情報番組でやっていた身体にいい食材の話をするようになり、私も大学の話や、アルバイト先のファミレスの話をするようになった。 友達と映画を見て面白かったねと笑い合えた時、唸るような漫画に出逢えた時、夫がモンブランを買ってきてくれた時、娘と息子が期待に胸を膨らませながら餃子の焼けるのを待っている時、母が自分のことをばあばと言った時。 そんなたわいもない小さなものが重なっていくたび、あの日の手を取らなかっった私の胸を刺す痛みは柔らかく解けていくのがわかった。 何もできず、自分のことばかり考えていた十代の自分も今はもうずっと遠くに感じる。 夕暮れの窓辺で何も語りあえたわけでもなければ、互いに言葉を本当の意味では交せなかった。 でも確かに存在していた穏やかな時間。 私が、もう二度と会えない貴方に言いたいことがあるとしたら、本当の所たった一つこれだけなの。
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