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「あー、一万円!」
立ち上がった男子学生が、一万円を奪おうと手を伸ばしてきた。私は慌てて彼を押しとどめながら、女の子に聞いた。
「それは、どこで拾ったのかな?」
「うん、あっち!」
女の子が指さしたのは、彼が落としたと主張するロータリーとは真逆の方向だった。
「俺の一万だろ!」
男子学生は一万円の所有権を訴えるが――。
「……ダメだ。これが君のとは限らない」
間違いなく彼の物とは証明できない。裸の一万円札では、他の人が落とした可能性もある。渡すことはできない。
「なんでだよ! 俺んだろ!」
「君が落としたのはロータリーだろ! この子が拾った場所とはぜんぜん違うじゃないか!」
「その子が嘘ついてるかもしんないだろ!」
「こら、暴れるな!」
男子学生が暴れ、取っ組み合いになった。椅子が倒れた。机が大きく動いた。男子学生の肘が顔にがつんと入った。目がちかちかする。
女の子が怖々と聞いてきた。
「あの、お金ないの?」
「あん、だったらなんだよ。その一万よこせよ!」
「こら、やめろ! ――君もそのお金は渡さなくていいからね。お巡りさんが預かるから」
「そっか。うん、わかった」
女の子はにこりと笑う。私は目を疑った。このくらいの子が、年上の男たちが暴れているのを見てまだ笑えるなんて。彼も驚いたのか、手を伸ばしたまま動きが止まってしまった。
驚く私たちを気にせず、女の子はさらにポシェットをいじった。
「だったら、はい、これどうぞ」
私は再度驚いた。女の子は一万円とは別に、千円札を三枚、ポシェットから取り出したのだ。
「これ、お兄さんにあげる!」
女の子は笑顔のままだ。私には女の子の真意がわからなかった。
「……これは、どうしたの?」
「これね、ミクのお家でパーティーするから、ケーキ買うためにお母さんからもらったの」
「ケーキを、買うためのお金ってこと?」
「うん、ケーキ買ってきてって頼まれたの」
「……じゃあ、これをあげちゃダメだよね。パーティーができなくなっちゃうよ」
「うーん、でもね」
女の子は笑顔を崩さずにこう言った。
「お母さんがね、困ってる人には親切にしなさい、優しくしなさいって言ってたの。親切にしないとサンタさんは来ないんだって! だから、わたしケーキ食べられなくてもいいの! お兄さん、困ってるんだよね?」
私は……今度こそ動けなくなった。羽交い絞めにしていた男子学生も、電池が切れたように全身から力が抜けていった。
その後、男子学生は私に謝罪した。無茶なことを言ったと謝った。ツイートをしないと約束してくれた。
私は彼を許した。本来は公務執行妨害で逮捕するのだが、お咎めなしにした。内心では、一方的に謝る彼に後ろめたさを感じていた。
私は女の子の前にしゃがんで目線を合わせ、こう伝えた。
「ミクちゃんは、ミクちゃんの代わりにお巡りさんがお兄さんにお金をあげるって言っても、嫌だよね? ミクちゃんがお兄さんに親切にしたいんだよね。だから、お兄さんにはミクちゃんがお金をあげて。代わりに、お巡りさんがケーキを買ってあげるから。それに、この雪だとひとりでケーキを買って帰るのは危ないよ。お巡りさんが家まで送ってあげるから。それで、お母さんにはミクちゃんがこんなに親切で優しかったですって伝えるから」
女の子がとびっきりの笑顔で頷いてくれた。
――私は、思うのだ。
私は正しい警察官ではあったはずだ。
職務を忠実に果たした。規定を守った。
――しかし、こうも思うのだ。
私は正しい警察官ではあったが、親切なお巡りさんではなかったのではないか、と。
ああ、なんて過ち――。
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