いつからなんて

14/14
78人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「悠……?」  震える声が、俺の唇からこぼれた。名前を呼ばれた悠は、嬉しそうに笑った。 「一ノ瀬、悠です。NYでの所属は……」  告げられた所属事務所は大手で、アジア系はめったにとらないことで有名なところだ。俺が驚いて隣の秀太郎を見やると、事務所からのメールが映されたタブレットを見せてくる。(本当だ……)うちの新しいスターをよろしく、とまで書いてある。近づいてきた悠がブックレットを取り出して差し出すのを秀太郎が受け取る。 「ポートフォリオです。日本にいた頃からの、代表的な仕事をまとめてあります」 「……すごいな」  愕然としている俺に、秀太郎がほら、とポートフォリオをめくってみせる。どの写真も見事で、ハイブランドの広告や大手スポンサーのイメージキャラクターをつとめてきたことがひと目でわかった。(悠……)おまえ、いつの間に、こんなに。めくっていったポートフォリオの最後には、見慣れたあの写真があった。 「……!」  こちらを見据える、銀髪の悠。(おまえ……)これをまだ、大切なポートフォリオの、厳選しきったはずの作品群の中に、残しているのか。俺と同じように。卒業制作の、アラビアンナイトをモチーフにした衣装を纏った悠と、今目の前にいる悠は、たった数年しか経っていないとは思えないほどに成長していた。 「海外に進出したのは?」 「半年前です。英語は日本でもみっちり勉強しました。コミュニケーションに問題はありません」  秀太郎の質問にはきはきと答える悠は自信に満ちて、身長は前と同じはずなのにずっと大きく見えた。すらりとした長身に信じられないほど長い脚、小さな顔に整ったパーツが並んで、大きな瞳はまぶしい光を放っている。 「……完璧だな」  身長とスリーサイズを確認した秀太郎が、ぽつりと呟いた。確かに悠は、思い描いていた完璧な体格と美貌を持っている。でも、でも……。動揺のあまり声も出ない俺に、秀太郎が囁いた。 「俺は、席を外す。……今度こそ、向き合えよ」 「秀……っ」 「あの子はきっと、お前のためにここまで来たんだ」  この、遠い国へ。日本での何もかもを捨てて? どうしたらいいかわからずにいるうちに、秀太郎が立ち上がる。「じゃあ、あとはデザイナーと二人で」と言い残すと、悠と俺を残してすたすたと出ていってしまう。 「……」  何も言えないでいる俺に、悠はもう、子供のようには見えない笑顔を見せて佇んでいる。(息が……)うまくできない。どうして、なんでここにいるんだ。もう逢えないはずだと思っていたのに。逢ってしまえば、すべてが生き生きと蘇る。 (薫ちゃん)  隠して生きてきた心の傷を、ずっとおまえだけが癒やしてくれた。孤独だった俺の人生に突然現れた幼馴染。俺が傷つけて、遠ざけてきたはずのその胸に、俺が最後に贈ったネックレスが光っているのが見えて。「……、悠……」名前をもう一度呼ぶと、にこ、と悠が微笑んだ。 「薫ちゃん。おれ、ここまで来たよ。やっと、あなたに追いついた」 「……っ」 「わかったんだ。あの頃のおれのままじゃだめなんだって……だから必死で仕事して身体も鍛えて、できる仕事は全部やった。オーディションも山のように受けて、今じゃ向こうから指名されるようになったんだよ」 「悠、……」  見ればわかる。おまえの努力の跡が。どこかバイト感覚だったあの頃のお前とはまるで違う。本物の、生粋のプロの肉体と魂がそこにあった。きっとおまえなら、あの服も。 「薫ちゃんの服を一番理解して、表現できるのはおれだよ。わかってるでしょ?」 「……」  どうしておまえはそんなに、自信に満ち溢れてるんだ。輝かしい太陽のような悠がまぶしくて、俺は目を伏せる。「……着て、みるか……?」ようやく出てきた言葉は、自分でも予想外だった。 「まだ、作りかけだけど……サイズは合うはずだ。今度のコレクションの、ラストのルック……」 「着るよ。どんな服でも、着れるよ」 「……わかった」    一度悠を残して裏に入り、マネキンに着せていた作りかけの衣装を大切に脱がせて運んでくる。戻ると悠は、もう服を脱いで下着姿になっていた。 「……っ、気が早いな」 「それが、ラストルック? 素敵だね」 「……」  まず編み上げになったボトムを渡して、悠に履かせる。相当長い丈なのに、悠にはぴったりだ。それから。 「ああこれ、外す?」 「いや、いい……これを着てくれ」  ネックレスをつまみ上げた悠に首を振って、つけたままトップスを羽織らせ、マントのようにケープを広げる。(ああ……)思った、とおりだ。思い描いたイメージ、虎をも御する砂漠の王、その化身がここにいる。俺がずっと、求めていた姿。至上の美、生きる歓び、運命の輪をあやつる神。それが、おまえだ……。 「……動くなよ」  そっと、その胸元を直してやる。指が震えるのを必死で堪えて、ネックレスに触れた時。悠の手が動いて、俺の手を掴んだ。 「!」    そのまま、別れたあの日のように、指先に口付けられる。心臓が、どくんと跳ねた。(だめだ……っ)もう、耐えられない。指を引き抜いて、背中を向けて逃げ出そうとした、次の瞬間。 「逃げないで」  そう囁いた悠が、俺の身体を、後ろから長い腕で抱きしめた。「愛してる、薫ちゃん……」ぎゅっと抱きすくめられた耳元で、真剣な声がした。     *    *    *    *  愛してる。背中から抱きしめてそう囁くと、おれの腕の中で薫ちゃんが震えた。 「ゆ、う……っ、よせ、……!」 「だめだよ。もうどんなに冷たくされたって、おれは泣いて逃げたりしない」 「……!」  ぎゅっと、俺よりもずっと小柄で華奢な薫ちゃんを強く抱きしめると、いやいやをするように薫ちゃんが首を振った。その白い肌は、耳から首筋まで真っ赤に染まっている。 「悠……っ、はなせ……」 「全部、わかってるよ。薫ちゃんは、おれを守るために突き放したんだって……」 「……っ」  あなたの愛を、おれはもう知ってる。囁けば、薫ちゃんは大人しくなって、俺の腕をきゅっと掴んだ。「……悠、……わかったから、離してくれ……」俯く薫ちゃんに胸が痛くなって、おれは彼の身体を離す。すると、愛するひとがゆっくり振り返った。 「……薫ちゃん。おれはもう、あの頃のガキじゃない。あなたを守れる男になったんだよ」 「俺、を……?」  泣き出しそうな顔をする薫ちゃんの、ほっそりした利き手を両手で握る。左利きの薫ちゃんにあこがれて、おれも左手で絵を描きたくて、でもうまくならなくて。俺みたいにならなくていいんだよって薫ちゃんは笑った。その頃、お父さんから左利きを直すように厳しく言われてたことだって、おれはその頃何も知らなかった。  あなたが隠してきたいくつもの悲しみを、おれはちゃんと受け止めたい。癒やしてあげたい。あなたを悲しませるすべてから、おれは守ってあげたいんだ。 「……こっちに来る前に、母さんにはちゃんと話したよ。おれの好きな人は、沢村薫だけだって……」 「! 悠、おまえ……!」  薫ちゃんが目を見張る。切れ長の目が潤んでる、泣いてもいいよ、大事な兎が眠るように虹の橋を渡った、あの夜みたいに。 「……そんなの、ずっと前から知ってたわって、言われたよ。おれも、もう大人だから好きにするって言って、出てきたんだ……」 「……」 「おれにはもう、怖いものなんて何もないよ。だから薫ちゃんも、怖がらないで」  ぎゅっと手を握って、その目を見つめる。おれたちあの、一緒に裸で眠ってしまった夜から、随分遠くまでやってきたね。たくさんすれ違って、傷つけ合って。でも、もう。 (るーちゃん、まって!) (はやく来いよ、悠!)  一緒に手をつないで、おれたちどこまでも走ったね。終わりがあるなんて思わなかった、あの頃に戻るわけじゃない。ここから始めるんだ、何もかもすべて一から、新しい思い出を作っていこう。  薫ちゃんの目に、涙が溜まっていく。なんて綺麗なんだろう。視界がぼやける。おれも泣きそうだけど、でももう、泣かないって誓ったから。おれは強くなったよ、だからもう、誰にもあなたを傷つけさせない。あなた自身にさえ。 「ふたりで幸せになろうよ。おれたち、一緒じゃなきゃだめなんだよ、ね……?」 「……っ、悠、……っ!」  綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、とうとう泣き出した薫ちゃんを、今度は正面からぎゅっと抱きしめる。「大好き……好きだよ、薫ちゃん……」もう一度伝えると、薫ちゃんの細い腕が、おれの背中を強く抱き返した。 「悠……っ、俺を、もう、離さないで……っ!」  きつく抱きしめ合えば、お互いの弱ささえ愛せる。もう何も、怖くない。     *    *    *    * 「……」  目が覚めると、俺は服を着ていなくて、裸の身体に毛布をまとってベッドに横たわっていた。そして、隣には。 「……ん……ぁ、……薫ちゃんだあ……」  俺を見つけてふにゃりと笑う、やっぱり何も着てない悠がいた。もう勘違いじゃない、俺たちは昨夜結ばれて、身体と唇を何度も重ねて、ずっと閉じ込めてきた想いを確かめ合った。 (悠……ッ!)(あ、あっ……薫ちゃん……!)何度も名前を呼んで、奥深くで繋がって。世界が今終わったっていいと思った。でも世界は破滅なんかしなくて、眩しい冬の朝の光の中で、俺は悠と笑い合ってる。一体今まで、何を怖がっていたんだろう。 「ふふ、……薫ちゃん、昨日かわいかったね」 「……そういう事言うなら、合鍵やらないぞ」 「! うそ!」 「いらないならいいけどな」 「いる、いるよ!! ほしい……!」  後で渡す、と言うと、やったあ、と悠が満面の笑みを浮かべる。そうしてその長い腕が、また俺の身体を抱き寄せる。暖かな体温に包まれて、俺は目を細めた。 (薫ちゃん、好きだよ)  なめらかな肌、ぬくもり、笑顔、ビー玉みたいな目。いまならきっと、シロツメクサの花冠を被ったお姫さまにだってなれる。お前が俺を、俺のなりたいものにさせてくれる。 「……ねえ、るーちゃん。おれ、しあわせだよ」  俺を抱きしめて、額をくっつけあったまま、悠が微笑んで言った。幸せ。ずっとその言葉の、本当の意味さえ知らないと思ってた。このあたたかさ、この胸の奥底にずっと灯っていた光、それがすべて。 「ずっとずっと、しあわせだったよ……るーちゃんは?」 「……ああ……幸せ、だよ……」  いつからなんてわかってる。それは俺たちが出逢った、遠い遠いあの日から。 END
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!