79人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
(るーちゃん!)
昔の夢を見て目が覚めて、俺は自分がオフィスの片隅の仮眠室で眠っていたことを思い出す。
「……」
思い出はもう、遠い日々。決して戻れない。幸せだったのは、あいつといた時だけ。他に友達なんていなかった。いらないとさえ思っていた。
「薫? 起きたか」
起きて仮眠室を出ると、早朝なのにもう秀太郎が来ていて、ちょうどマシンでコーヒーを淹れているところだった。「俺にも頂戴」とだけ言い残して、給湯室に顔を洗いに行く。
(薫ちゃん)
ばしゃり、と冷たい水を顔にあびせて、ふわふわしたタオルで拭き取る。夢の中では、あいつが笑ってた。悠。俺が傷つけてしまったおまえ。今、どうしてるんだろう。
突然の告白をはねつけてから、もう三ヶ月。俺たちの海外進出の準備は本格的に進んで、今月末にはここも整理して、来月からNYに拠点を移す。前々から考えていたことで、ようやく夢の第二段階に進める、誇らしい日々のはずなのに、胸は重く苦しかった。原因はわかってる。
(悠……)
好きだなんて、絶対に言えない。けれど本当にこのまま、何も言わずに去ってしまっていいのか。心の声は、あいつを求めてるんじゃないのか。もうひとりの自分が問いかける。俺はそれを無視し続けてきた。
お互いのいない人生なんて。心が引き裂かれるようなのに、俺は目を背けて、旅立とうとしている。ずっと遠くへ。あいつのいない国へ。もうシロツメクサを編んでくれることもない、酔っ払って笑い合うことも、あいつの瞳にひそかに胸をときめかせることも。誰より大切な存在を遠ざけて、俺は……。
「おい、コーヒー冷めるぞ」
「……」
給湯室でぼうっとしていると、秀太郎がわざわざ俺のマグカップにコーヒーを注いで持ってきてくれた。受け取って、ほのかな湯気を顔に受ける。
「……大丈夫か?」
悠との事情も知ってる秀太郎が、少し心配そうに声をかけてくる。ここ数週間、いろいろな仕事や渡航準備が重なって忙しく、ろくに家に帰れていないことを言っているのか、それとも。どっちにしても、俺は強がることしかできない。
「ん。……相変わらず、お前の淹れるコーヒーまずいな」
「嫌なら飲むな」
「飲むよ。濃くて目が覚める」
コーヒーを手にオフィスに戻ると、朝の光が眩しく差し込んでくる。なにもかもが白く照らされるこの場所から、俺は旅立つ。自分で決めたこと、もう後戻りはできないのだと思った。
* * * *
「悠! 久しぶりじゃない、あんた全然帰ってこないんだから」
「ただいま」
半年ぶりくらいに実家に帰ると、髪がショートカットになった母さんがおれを迎えた。再婚もせず、女手一つでおれを育てたあと婆ちゃんを見送って、今はひとりでこの家に住みながら、柴犬を飼い始めた母さん。元気で、よかった。
「帰ってくるなら連絡しなさいよ、まったく……ほら、お婆ちゃんに手合わせて」
「わかったよ」
居間の隅に置いてある婆ちゃんの仏壇の前に座って、目を閉じて手を合わせる。最期まで頑固で怖かったおれの婆ちゃん、でも料理も裁縫も上手で、おれを大事に育ててくれた。顔を上げると、いつの間にか母さんがすぐそばに座っていた。お茶を入れておれの好きなお菓子をローテーブルに並べながら言う。
「本当、あんたは薄情なんだから……そういえばこの前、薫くんが来たのよ」
「え……!? なんで!」
なんで、薫ちゃんが。いや、たしかにこの家は薫ちゃんの家の隣なんだし、小さい頃は遊びに来たこともよくあったけど、薫ちゃんは実家には寄り付かないはずなのに。驚いておれが目を見開くと、お茶とせんべいを手にしながら母さんが言った。
「先々週かな? てっきり実家に帰ってきたついでなのかと思ったんだけど、そうじゃないんですって……わざわざ、お婆ちゃんの仏前に手合わせに来てくれたの」
「……」
「お葬式は仕事で出られなかったし、ずいぶん遅くなったけどって。小さい頃、うちのお婆ちゃんが作るぼたもち、好きだったんですって」
「薫ちゃん、が……?」
確かに、薫ちゃんがうちに遊びに来たときは、婆ちゃんがよくぼたもちを出してくれた。おれは薫ちゃんちで出てくるお洒落な洋菓子のほうがずっと羨ましかったけど、こういう物食べたことないからって、薫ちゃんは喜んで、こっそり持って帰ったことがあった。そんなの、覚えてたんだ。
(薫ちゃん……)
やっぱり、本当は優しい薫ちゃんなんだ。その心根のあたたかさが身にしみて、おれは何も言えなくなる。おれの薫ちゃん。なんだよ、おれに何も言わずに……。ぎゅっと拳を握りしめた時、母さんがはあ、とため息を付いた。
「それにしても、薫くんすごいわよねえ……ニューヨークですってね」
「……!」
その話も、したのか。おれには言わなかったのに。きっとおしゃべり好きな母さんがあれこれ近況を聞き出したせいなんだろうけど。おれがむうっと口を尖らせるのにも気づかず、母さんが続ける。
「あんなに若いのにデザイナーとして有名なんでしょ? 私は全然そういうのわからないけど」
「……まあ……」
「ええと、いつって言ってたかしら……ああそう、来週にはもう、向こうに行くみたいよね」
「! それ、本当……?」
「なによ、あんた知らないの? 仲良しでしょ?」
母さんが手元にカレンダーを引き寄せて、そうそうこの日って言ってたわ、と来週の日付を指差す。(そんな……)本当に、行ってしまうんだ、こんなに早く。急に胸が締め付けられて、おれは部屋のあちこちに飾られている、小さかった頃のおれの写真を見やる。何枚かには、薫ちゃんも笑顔で写っているのに。
「薫くん、ご両親には随分反対されてたけど……この前来てくれたときも、結局ご実家には寄らずに帰っちゃったみたいね」
「……」
「そうだ、あんた晩御飯どうするの? お肉でも焼く?」
「……なんでもいい……」
このままで、本当にいいのか。(薫ちゃん)さよならの前に、やっぱり、もう一度。祈りのように心のなかで、あなたの名前を呼んだ。
* * * *
「……はぁ……」
いい加減に家に帰って休め、と秀太郎に言われて、俺は夜遅くにオフィスを出て自宅に向かった。
(疲れたな……)
オフィスの完全な整理を秀太郎に任せて、俺は一足先に、来週にはNYに発つ。このマンションは家具やなんやらをほとんどそのまま置いて後輩に貸し出す予定で、必要なものだけを向こうに送ったから、もう家でやることはほとんどない。
ゆっくり、疲れた身体をひきずるように坂を登りきって、角を曲がった時。「……?」誰かが、マンションのエントランスの前に座り込んでいるのが見えた。
(酔っぱらいか?)
それか誰かが、タバコでも吸ってるのか。なるべく避けて通ろうか、と思ったその時。暗がりに座っていた男が、ふわりと顔を上げて。
「……やっと、帰ってきたね」
薫ちゃん。そう言って、俺をずっと待っていたらしい悠が、ふにゃっと泣きそうな顔になった。
最初のコメントを投稿しよう!