いつからなんて

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「悠……? おまえ……」  やっと、帰ってきたね。捨てられた子犬のような目をして見上げる悠を立たせると、歳下の幼馴染は「ごめん、いきなり来ちゃって」と凛々しい眉を下げた。 「何時間待ってたんだよ……連絡すればいいだろ」 「したら、薫ちゃん……帰ってこないかなって思って……」 「……」  図星だった。もし悠から、家の前で待ってるなんて連絡が来たら、今日は帰らないと決めていただろう。かといって今更追い返すわけにもいかず、仕方なく悠を連れてエントランスを通って自宅へ入ると、開いた玄関のドアをくぐらずに立ち止まった悠が言った。 「……薫ちゃん……本当に、行っちゃうの? ニューヨーク……」  うそだといって。その大きな瞳がそう語りかける。「……いいから、とりあえず入れよ」と促して、靴を脱いで廊下を歩いていく。後ろから、悠がとぼとぼとついてくる。ソファに座らせて、少し間をあけて隣に腰を下ろした。 「誰かに、聞いたのか。お母さんか?」 「……知り合いのカメラマンさんと……母さんにも聞いた」  来週には、行っちゃうって。それでいてもたってもいられなくなったのだと、そう言って悠は泣き出しそうな顔になる。この子供っぽい表情が、俺の胸を切なくさせる。そんな、小さな子みたいな顔するなよ。嫌でも思い出しちまうだろう、俺をるーちゃんと呼んでたおまえを。 「……どうしておれに、海外に行くってこと、話してくれなかったの……?」  そうか。それが、聞きたかったのか。裏切られたというように悲しげな表情を浮かべる悠に、俺は黙っていようと思っていたことを打ち明ける。 「この前酔っ払った夜に、ちゃんと話したよ。おまえ、忘れちまったんだろ」 「え……っ」 「まあ、この様子じゃ覚えてないかもなって思いながら話した俺も悪かったけど……そういうことだよ」    俺が静かに言うと、ショックを受けた様子の悠がしばらく黙り込んで、それから小さな声で、ごめん、と呟いた。 「ごめんね薫ちゃん、おれ……おれ、ほんとに覚えてなくて……ちゃんと、言ってくれてたんだね……」  声はどんどん小さくなって、後半はほとんど聞こえないくらいだった。悠、おれの大事な幼馴染。俺のことなんかで、そんなふうに苦しむな。もう傷つくな。もうおれはおまえのるーちゃんでも、花冠をもらったお姫さまでもない。俺が本当になりたかったものには、永遠になれないってわかってるんだ。 「……薫ちゃん……」  ぐっと、何かを言いたげな色を瞳に浮かべて、熱っぽい目で悠が俺を見つめる。(やめろ……)そんな目で、俺を見るな。俺はもう行くんだ、俺はお前を……。胸が詰まって何も言えなくなった時、悠が俺の手を取った。 (悠)  大きな手だった、華奢な俺の手よりずっと。長い指、分厚い手のひら、あたたかな体温が伝わって、俺はもう限界だと思う。悠、どうか許してくれ。もう俺を、追わないでくれ。なのに。眉を寄せる俺の目の前で、目伏せた悠が俺の指を口元に運び、そっとうやうやしく、大切なもののように、触れるだけのキスをした。 「……!」  全身にびりびりと、電めいた衝撃が走る。そんな仕草、初めてしたじゃないか。まるで王子と、結ばれる約束のお姫さまみたいに。俺とおまえは、そんなふうには絶対になれないのに。なんで、そんなことするんだよ。 「……やっぱり、すきだよ。薫ちゃんが、すき……お願い、行かないで……」  最後のお願いだと、いうように。俺の細い手を包み込んだ悠が、祈りのように囁いた。(ああ……)悠、おまえは信じられないくらい純粋で、きらきらの太陽みたいにいつだって輝いていて。その瞳が俺を見つめるのが、俺を追いかけるのが好きだった。誇らしかった。嬉しかった。  悠。好きだよ。俺だって、俺のほうが、いつもどんなときもおまえを愛してた。喉まで出かかった言葉を、強引に飲み込んで。 「……もう、いい加減にしてくれよ」  顔を伏せて、俺は氷のような言葉を投げつける。どんなに嫌われても、恨まれてもいい。おまえの未来のためなら。悠、この千切れそうな胸の痛みさえ、おまえのためなら耐えられる、きっと。するりと手を引き抜くと、悠が顔を歪めた。 「だって……っ」 「言ったろ、おまえの気持ちには応えられない。俺の事は忘れて、幸せになれよ」 「いやだよ……おれを、置いていかないで……!」  悠の悲痛な叫びが、俺の魂を切り裂く。(悠……)もういい、もういいんだ。まっすぐなおまえの目も見れない俺のことなんか、きれいさっぱり忘れてくれ。あの美しい日々の思い出だけを、綺麗な記憶として残しておいてくれ。俺には、こうすることしかできないんだ。震える指を、ぐっと握り込んで隠しながら立ち上がる。 「……おまえは大事なお母さんに、幸せな家族を作って会わせてやれ……俺じゃ、だめだよ」 「なんで……なんでそんなこと言うんだよ……薫ちゃん……!」  すがるように俺の袖をつかもうとする悠の手を振りほどいて、俺は”るーちゃん”に別れを告げる。ずっと前から、こうしなきゃいけなかったんだ。 「話は、終わりだ。ここの合鍵はもう、いらないだろ……じゃあな、悠」 「……出てけって、こと……?」  悠が泣いていることは、背を向けていても声でわかった。そんなおまえの弱さごと、おまえの純粋さごと、おまえがくれるすべてを俺は愛した。四つ葉のクローバーを探して、陽が暮れるまで草原で遊んだ日も。初めて一緒に泊まった夜も。ずっとずっと、おまえだけを愛してた。それももう終わり、おまえのるーちゃんはもう、どこにもいないんだよ。 「……しばらく、ろくに寝てないんだ。俺はもう寝るから、勝手にしな」 「……ッ!」  俺が寝室に入って扉を閉めると、悠がすん、と鼻を鳴らす音がした。真っ暗な部屋の中で動けないまま、悠がゆっくりと出ていく気配を感じる。足音が遠ざかり、玄関の扉が閉まる音がする。  鍵なんてもう後でいい、やっと終わった。終わってしまった。そう思って、俺はベッドに座り込む。そうして。 「……っ、……ぅ、……ッ!」  涙が、とめどなく溢れた。悠、春も夏も秋も冬も、俺はおまえといた。どんな時も、心の奥におまえがいた。おまえが支えだった。さよならも言えないまま、きっともう二度と、美しい季節をともに過ごすことはない。これでいいんだ、大切な思い出だけを胸の一番奥深くに閉じ込めて、俺は過去と決別する。 (さよなら)  悠。これから何度、おまえを想って俺は眠れない夜を過ごすだろう。何度おまえの笑顔の夢を見るだろう。遠い日々は還らず、あの頃には、愛のある場所には二度と戻れない。どこかでわかっていたから、ずっと尊く感じて、おまえといる時間が大切だった。  おまえを置いて、俺は旅立つ。決してひとつになれなかった俺たちの距離は、どこまでも遠くなる。おまえを傷つけた俺を忘れて、優しいるーちゃんの事だけを、どうか覚えていてほしい。
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