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時間が、あっという間に過ぎた。おれが漫然と仕事をして、抜け殻のように拗ねているあいだに、薫ちゃんは何も言わずにNYへと旅立っていった、のだと思う。連絡すらないから、おれには知りようもない。
「悠、元気無くね?」
たまに顔を合わせると、親友の蓮はそんなふうに心配してくれる。おれは返す言葉もなくて、まあ、とか別に、とか適当にごまかすことしかできなかった。
(いい加減にしてくれよ)
冷たい言葉を投げつけるようにして、薫ちゃんは最後のドアを閉めた。おれたちの絆は途切れて、たぶんもうどうしようもないんだろう。楽園のようだった幼い頃の思い出だけを抱えて、おれは毎晩のように涙を流す。こんなに泣いてばかりいる日々は初めてで、失恋というのは辛いものなのだとおれは思い知った。
最初に拒絶された時は、まさかと思った。海外に行くと聞いて、だめもとで家の前で待っていた夜も、心のどこかで、きちんと話をすればわかってくれるんじゃないか、受け入れてくれるんじゃないかって期待を捨てきれなかった。それくらい、おれの記憶の中の薫ちゃんは、口は悪いけど優しいひとだったから。でも。
(薫ちゃん……)
あんな顔をさせてしまうくらい、おれはあなたを追い詰めてしまった。どうしてあれほどおれを遠ざけるのかはわからなくても、拒まれていることはよくわかって、おれは薫ちゃんの家から泣きながら飛び出して、それっきり。
「……」
仕事のない平日、おれはぼんやりと自分の部屋のベッドに横たわったまま、これからどうすればいいんだろうと思う。モデルになったのだって、薫ちゃんのブランドがきっかけだった。道を照らしてくれたお星さまを失って、おれは宙ぶらりんのまま。彼にまつわる思い出のすべてが、今は痛くて切なかった。
「!」
ぼうっとしていると、スマホが鳴って、電話の着信を知らせる。「……?」知らない携帯番号だ。誰だろ、と不審に思いながら通話ボタンに触れて耳に当てる。
「もしもし……?」
「こんにちは。一ノ瀬 悠さんの電話で間違いないですか?」
聞こえてきたのは、低く落ち着いた、男のひとのいい声だった。知らない声……と思って、いや、どこかで聞いたことがあるような気がすると思い直す。
「そうですけど。どなたですか?」
「失礼しました。『眠兎(MINT)』の九澄 秀太郎といいます。薫の同僚です」
「……!」
そうだ。この声、たぶんきっと、あの夜に。俺と電話してた薫ちゃんの家に訪ねてきた、同僚だっていう人の声……。(なんで)いきなりおれに、電話してきたんだ。突然のことに驚いて何も言えずにいると、電話の向こうの声が続けた。
「突然、すみません。もし時間があれば、『眠兎(MINT)』のオフィスまでいらっしゃいませんか」
「え……」
なんでおれが、そんなところに。一足先に旅立った薫ちゃんはもういないはずのオフィスに行く意味がわからなくて一瞬ためらうと、声色と口調が少し変わった。
「……薫から、言付けがあるんだ。君に、渡したいものがある」
その言葉で、おれの胸はずきんと痛むと同時に、どくんと跳ねた。
* * * *
「やあ、よく来たね」
「……どうも……」
おれが急いで『眠兎(MINT)』のオフィスを訪ねると、黒一色のお洒落な格好をした、背の高い男の人が出迎えてくれた。黒髪をなでつけて、落ち着いた雰囲気の、ひどく格好いいその人が、電話をくれた秀太郎さんだった。
「あの……薫ちゃんから、って……」
ここに来るまでの道すがら、ドキドキが止まらなかった。一体、何なんだろう。連絡ひとつくれないあのひとが、おれに何を。
「そうそう、こっちへおいで」
他に誰もいなくて、荷物があちこちにまとめられて雑然としたオフィスの奥に案内されると、おそらく薫ちゃんのものだったんだろうデスクがぽつんと残されていた。デスクの上にはもう何もない。すると秀太郎さんが、引き出しを鍵で開けて、中からじゃらり、と手作りらしいネックレスを取り出した。(あ……)それって。
「……これをね。君にあげてくれって、薫がわざわざ電話をよこしてね」
「これ……」
受け取って、確信する。これは、あのネックレスだ。アラビアンナイトをモチーフにした、あの卒業制作の衣装で、おれが纏った首飾り。石選びから薫ちゃんが全部やって、その手で編み上げた、世界にたったひとつの。
(薫ちゃん、まだ持ってたんだ……)
これを、おれにって。どういうことなの。もういい加減に、自分のことは忘れてほしいんじゃなかったの。どうして思い出を引っ張り出すの、おれを離さないの。ぐっと泣きそうになってネックレスを握りしめると、秀太郎さんが囁いた。
「……つらいのかい?」
優しくて、穏やかな声だった。こんなひとが、いつも薫ちゃんを支えてるなら、それこそおれなんて必要ないのか……悔しい気持ちと、仕事で重責を背負う薫ちゃんに、こういうひとがいてくれたことにほっとする気持ちが混ざり合う。
「……おれ……知ってるかもしれないけど、薫ちゃんとは、幼馴染で……」
「聞いたよ、薫に」
「……それで……薫ちゃんに、好きだって言ったんです」
「うん……」
きっとそのことも、薫ちゃんから聞いてるんだろう。合鍵を持ってるくらい信頼されてるんだ、ただの同僚とは思えない。おれは続けた。
「薫ちゃんがおれを、好きになってくれなくても、それは構わないんです。だけどどうしてあんなに、……あんなに嫌がるんだろうって、それが悲しくて……」
そうなんだ。おれは薫ちゃんが、同じ気持ちを返してくれないことが辛いだけじゃない。おれが薫ちゃんを好きでいることさえ、許してもらえないのが悲しいんだ。だっておれたち、ずっと一緒だったじゃない。ふたりで一個だったじゃないか。
悔しくて寂しくて、おれが唇を噛みしめると、秀太郎さんが「君はやっぱり、覚えてないんだね」と言った。え?
「君は、薫より二歳下だよね。小さかったから、忘れてしまったんだろうね」
「……なんのこと、ですか……?」
「薫に聞いたんだよ」
昔の、話を。そう言って、秀太郎さんが話し始める。おれはわけがわからなくて、呆然と突っ立ったままそれを聞くしかない。
「幼い頃、君が将来の夢を聞かれて、こう言ったそうなんだ。”おれはるーちゃんの、およめさんになる”……ってね」
「……?」
そんなこと、おれ言ったっけ。まるで思い出せなくて眉を寄せると、秀太郎さんが目を伏せる。薫ちゃんの話を、記憶をなぞって思い出すように唇に触れて。
「それで、両方の親が心配してね。しばらくの間、君と薫は一緒に遊べなくなってしまったんだそうだ」
「え……っ」
「大人たちに、逢うのを禁止されたんだよ。まあこう言われたんだろうね、もうあの子とは、遊んじゃいけません、って……よくある話だろう」
「そんな……」
何も、覚えていない。そんなことがあったのか。一体何歳の頃だろう。背中に冷たい汗が流れる。
「もちろん、子供の言うことだ。やがてほとぼりは冷めたらしいけど……その時のことが、薫には忘れられないんだよ」
秀太郎さんの言葉が、体に染み込むように入ってくる。(薫ちゃん……)繊細で、友達も他にいなかった薫ちゃん。どんなに寂しかっただろう。ひとりぼっちで、その間、一体どう過ごしていたの。泣いてたよね。きっと。小さなるーちゃんがひとりで膝を抱える姿が目に浮かんで、おれの胸はぎゅっと締め付けられる。
「大人には短い期間でも、子供には永遠だ。もう二度と君に逢えないのかって絶望して、毎晩泣いていた日々のことを、その痛みを、薫はずっと覚えてる……」
(ああ……)
だから。だからあなたはあんなに、おれの告白を拒絶したの。るーちゃんが好き、それは、ふたりを引き裂いてしまう破滅の言葉だから。世界中が、大切な人たちが、決して許さない、おれたちのことを。求めれば、手を取ろうとすれば、お互いに深く傷つくことになるから。
「……だから絶対に、言っちゃいけないんだ。この世界で、結ばれたいなんて……そう言って、薫は泣いてたよ」
「……っ」
そんな。薫ちゃん、おれの薫ちゃん。(おまえは大事なお母さんに、幸せな家族を作って会わせてやれ)(俺じゃ、だめだよ)あの言葉には、そんな痛みと切ない記憶があったの。トラウマになるほど、幼かった薫ちゃんには辛かった記憶が。
(薫ちゃん)
おれたち、ずっと一緒だったよね。出逢った日から、薫ちゃんはおれのお星さまで、お姫さまで、一番の憧れで、おさなごころの君だった。シロツメクサの花冠が世界で一番似合う、綺麗でやさしいおれの愛するひと。
「……薫は、君が思うよりずっと、君を愛してる。だからこそ、応えられなかったんだ」
「……ッ」
薫ちゃん。ずっとあなたは、おれを想ってくれていたの。おれが知らない、幼い頃から。おれがあなたへの想いに気づくよりも、ずっとずっと前から。どんな気持ちでおれのそばにいたの、決して愛してると言えないままに。言えばすべてが、壊れてしまうから……。あなたの気高い愛のすべてを、おれはようやく知る。
そんなに大切にしてくれていたのに、何もかも忘れていたおれが、全部台無しにしたんだ。薫ちゃん、薫ちゃん、おれを許してくれなくていい、どうか、もうこれ以上傷つかないで。もうひとりで泣かないで。俺じゃだめなんて、悲しいことを言わないで……。
「……っ、ぅ、……!」
思い出のネックレスを胸に抱きしめて、おれはとめどなく涙を流した。たったひとつだけ残った絆を握りしめて、子供のように泣くのはもう、これで最後だと誓いながら。
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