いつからなんて

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「ハイ、カオル。今日も綺麗だね」 「はは、ありがとう」  いきつけのカフェで、すっかり顔見知りになった店員のブラッドからコーヒーを受け取る。すぐ口説いてくるところ以外は良い奴だ。カフェを出ると、冷たい風が顔に吹き付ける。首をすくめて歩き出せば、数分しないうちにまた名前を呼ばれた。 「カオル!」 「やあ、ユスフ。おはよう」  二年も住んだ街を歩けば、大抵は知人に声をかけられる。この周辺にはブラッドのカフェ以外にもレインボーフラッグを掲げた場所が多く、クィア・フレンドリーな地区だと言えるだろう。おかげで俺も、日本にいた頃よりは随分と生きやすくはあった。 「おはよう」  海外進出した『眠兎(MINT)』のオフィスに入ると、もう来ていた秀太郎が振り返って手を上げた。その手に、彼の分のコーヒーも渡してやる。こいつに淹れさせるくらいなら、多少高くついてもブラッドの店で買ったほうがいい、というのはこの国に来てからすぐに出た結論だった。 「今日も冷えるな」 「もっと寒くなるさ。風邪引くなよ」 「わかってるって」  ニューヨークに来た最初の年は、思いっきりインフルエンザにかかって散々だった。感染るのが危ないからと秀太郎さえ見舞いに来させず、狭いフラットの隅で横たわって、ひしひしと孤独を感じたものだ。  そんな時、以前だったら昔の写真を眺めたものだけれど、俺はそうしなかった。そのためにアルバムは日本に置いてきたし、携帯はこっちで新しく買って、日本で使っていたものは引き出しの奥に電源を切ってしまい込んだ。 「……」  この二年。俺は孤独に戦ってきた。人種差別とも、慣れない環境やまだ拙い自分の英語力とも、ビジネスで『眠兎(MINT)』を食い物にしようとするセンスの欠片もない連中とも。そうして、ブランドを守り、育ててきた。今では路面店も増えて、海外でのコレクションも複数回を数える。街を歩けば、ファッションに目ざとい若者が『眠兎(MINT)』のアイテムを身に着けているのとすれ違う。今の所は大成功と言えるだろう。  デスクに座って新聞を読みながら、俺は、これでよかったんだと思う。自分に言い聞かせるように。日本の情報はあえて入ってこないようにシャットダウンして、頭からどっぷりこちらの生活に浸かって、置いてきたもののことは考えないようにした。それで、いい。これで、よかったんだ……。 (薫ちゃん)  それでも時々、あのビー玉みたいな大きな瞳がよぎる。るーちゃん、と呼ぶ声がする。シロツメクサの花冠を、ブザービーターのシュートを、アラビアンナイトの衣装を、思い出す時がある。 (るーちゃん、おひめさまみたいだね)  そう言って笑っていたおまえ。いじめっ子たちから、二歳も小さいのに必死になって俺を守り通したおまえ。今どこでどうしているだろう、俺は考えを振り切って目の前の新聞に集中しようとする。忘れろ、もういい、もう全て終わったんだ。  俺は、悠を守りたかった。残酷な世界から、あいつを傷つけるすべてから。執着のあまり自分たちの絆を否定されるくらいなら、いっそ離れたほうがいい。輝いていた思い出だけを残して、俺は遠い国にやってきたんだ……。 「おい、大丈夫か?」  黙り込んで新聞に顔をうずめていた俺の肩を、いつのまにか近くに来ていた秀太郎がぽんと叩いた。顔を上げると、変わらず整った顔立ちの相棒が俺を見下ろす。 「……ああ。大丈夫だよ」  こいつがいなければ、ニューヨーク進出なんて絶対に無理だっただろう。秀太郎は留学経験があって英語も堪能だし、常に冷静で物怖じしないし、ビジネスセンスにも長けている。交渉事は、全部任せておけば安心だった。  俺がデザインして、秀太郎が売る。ふたりでそうやって、ブランドを大きくしてきた。俺が答えて笑顔を作ると、「良くない顔だな」と秀太郎が言った。 「なんだよ、人の笑顔をそんなふうに……」 「作り笑顔だ、見ればわかる。あまり無理するなよ」 「コレクションの準備中に、無理しないとかありえないだろ」 「……まあ、それはそうだけどな……」  いつだって秀太郎は静かに、俺を支えて、見守ってきた。きっと言いたいこともたくさんあるだろうに、その半分も言わずに。感謝を込めて見上げると、黒い服しか着ない男は「とにかく、倒れるのだけはやめてくれよな」と言って離れていく。    (……ふう……)  俺の作った笑顔を見抜くのは、世界にたったふたり。今では、秀太郎ひとりだ。もうひとりとは、きっともう逢うこともない。でもあいつのくれた記憶だけが、いまも孤独な俺を勇気づける。あいつのくれた言葉が、笑顔が、真っ直ぐな瞳が、俺を俺でいさせてくれる。たとえ、もう二度と逢えなくても。 「……さ、やるか」  新聞を畳んで、俺は今日の作業のリストを眺めた。長い一日になりそうだった。     *    *    *    * 「どう思う? 薫」 「……」  俺がそっと指でテーブルにバツを描くと、秀太郎が笑顔で「ありがとう、結果は事務所に伝えるよ」と数メートル離れた位置に立つ新人モデルに告げた。 「ありがとうございました」  金髪が美しいモデルの青年がオフィスを出ていくのを見送り、ふう、と秀太郎が額に指を当てる。これで十人連続、俺がバツを出したせいだろう。 「薫……そろそろ、決めてくれないか。気持ちはわかるが……」 「必要なのはあと一人、ラストのルックを着るモデルだけだろう」  今度のコレクションは、『眠兎(MINT)』の原点回帰でもあり、新たなチャレンジでもある大きなターニングポイントだ。黒を基調としたミニマムなデザインから、がらりと極彩色の、イマジネーション豊かなシリーズにするつもりだった。それは俺が、この世界に、今最も足りないと思うもの……”喜び”を込めた作品群だ。そしてそのラストを飾るのは、特別な一着。 「あの一着がコレクションの成功を決めるって、おまえもわかってるだろ?」 「だが、実際もう日がないぞ。モデルを決めて採寸しないと……今までの中なら、誰が良かった?」  ほら見直してみろ、とばかりに資料の入ったタブレットを目の前に差し出されて、俺はそれを手で退けた。 「誰も良くない。あの服を着れる器じゃない」 「よく言うな。大手事務所のエースだって何人も来てたんだぞ?」 「他の服ならいい。でもあの、ラストの服はだめだ……」  いっそ、秀太郎に着せるか? いやそれも違う。俺はまだ出来上がってもいない最後の一着に、確かに自分でも奇妙だと思うほど執着していた。 「お前の中に、どういうイメージがあるんだ? どれだけスタイルのいい美形で、オーラもあって華やかでも、神秘的でも、お前は満足しない」 「……」  違うんだ。ただ、違うんだ。俺が思い描いているものと。俺の求める喜びと。うまく言語化出来ずに、俺は呻いて椅子の背もたれにのけぞった。 「わからないよ。ただ、違うっていうのはわかる……ビッとこないんだ」 「それじゃ、候補者も探せないよ。いい加減に現実と折り合いをつけてほしいね」  冷静にそう言って、秀太郎は目頭を押さえた。俺が困らせているのはよくわからるが、違和感があるモデルにイエスとは言えない。おれが立ち上がると、秀太郎が声をかける。 「どこへ?」 「コーヒー買ってくる。お前もいるか?」 「次の候補者が来るぞ。逢いもしないのか」 「もう終わりじゃないのかよ」 「昨夜遅く、一件飛び込みでアポイントが入ったんだ。俺もまだ詳細は見てなくて……ええと、所属事務所は……」  タブレットを操作した秀太郎が、くい、と片方の眉を上げた。無視して俺が出ていこうとすると、がたん、と立ち上がる。「待て」と相棒が言った。 「なんだよ。どうせ次もだめだろ、適当にあしらっておいてくれよ」 「だめだ。もう来る、座れ」 「はあ? 何でそんな……」 「いいから座れ」  有無を言わせない物言いに気圧されて、二つ並べた机の前に座り直した。(なんだよ……)他のモデルだって、スケジュールが合わなくて秀太郎だけで面接したりしてたのに。不審に思って見やると、相棒の顔はいつになく真剣だった。 「なあ、秀太郎……」  一体、なんだっていうんだよ。俺が尋ねようとした時、コツコツ、とノックの音がして。「入って」と秀太郎が言うと、ガチャリと、ゆっくり扉が開いた。そうして、背の高い人影が入ってくる。なんだよもう、と見やると、そこには。 「……!」  忘れたはずのすべてが、一瞬で鮮やかに蘇る。シロツメクサ、銀色に染めた髪、抱きついた時の背中の固さ、ビー玉みたいな瞳。最後に贈ったネックレス。(嘘、だろ……?)これは、夢なのか。絶句する俺の目の前で、そいつが笑った。 「ひさしぶり、薫ちゃん」  すらりとした十頭身、長い手足に小さな頭。別人のように逞しく成長した、俺の幼馴染が立っていた。
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