いつからなんて

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「……いった……」  頭が痛い。その痛みで俺は目を覚ました。いてて、と額を押さえてゆっくり起き上がると、隣で寝ていたはずの悠の姿はなかった。 「悠……?」  トイレかシャワーでも使ってるのか、と思ったが、物音一つしないこの部屋には、もう俺しかいないのだと気づく。どこを探しても、あの人懐っこい、大型犬のような年下の幼馴染の笑顔はなくて、俺は自分が寝過ごしたんだとわかった。枕元のスマートフォンを見るともう昼過ぎで、休みの日でよかったと安堵する。その一方で。 (なんだ……)  何も言わずに、出て行ったのか。別に何かを期待してたわけじゃないけれど、悠らしくないとも言える行動が伺えるがらんとした部屋で、俺はひとりぼうっと床を見つめる。なんだ。お前、そういうことできるんだな。 「……」  見直したスマホの画面には、悠からのメッセージの通知も着信もなかった。脱ぎ捨てた服は当然着ていったみたいで、あいつのスマホも家の鍵も財布も、何一つ残ってはいなかった。ちゃんと、帰れたのかな。あいつ、覚えてるかな……。考えるのをやめて、俺はベッドから降りた。  洗濯機を回しながら温めのシャワーを浴びて、最近乾燥気味の肌にスキンケアをしてから目についた服に着替えて、髪を乾かして前髪を上げてセットする。左耳にピアスをつけて、俺は財布とスマホだけ持って家を出た。これ以上、ここに一人でいたくなかった。どうせ二日酔いなんだ、好きにしたっていいだろう。     *    *    *    * 「悪い、遅くなった」 「俺もいま来たところ」  俺が息をするように嘘をつくと、それも見透かしたように同僚の九澄 秀太郎がただでさえ切れ長の目を細めた。長身の秀太郎には少し狭い二人がけのテーブルに向かい合わせに座る。秀太郎がメニューを手に長い首を傾けた。 「飲むだろ? 何がいい」 「いや、まだ二日酔いで頭痛いからお茶でいい……お前は飲みなよ」 「ん、そうする」  馴染みのウェイターに適当に注文して一息つくと、ツーブロックの黒髪をなでつけながら、「急にどうした?」といつも黒い服を纏っている秀太郎が言った。休みの日にいきなり呼び出すのは、服飾学校時代にはよくあったけれど、最近ではなくなっていたからかもしれない。うん、とだけ答えて、俺は自分の指をもてあそぶ。 「……なんかあったのか?」  それが、言いにくいことがある時の俺のくせだとよく知っている秀太郎が、運ばれてきたハイボールを差し出しながら言った。そのグラスに、俺の烏龍茶のグラスをかちんとぶつけてから、別に、と答えて一口飲んだ。 「なんもないよ。ただ、暇だったからお前何してるかと思って」 「どうせ月曜には会うのに?」 「……」  その通りだ。俺は服飾学校在学中に自分のファッションブランド『眠兎(MINT)』を立ち上げて、秀太郎は二年ほどアパレルメーカーで働いてから右腕として合流してくれた。今では毎日、小さなアトリエ兼オフィスで一緒に働いている。そうなってからは、わざわざ休日に飲むことはほとんどなくなっていた、けれど。 「いいだろ。たまには昔に戻っても」 「……まあ、そうだな」  秀太郎が整った横顔をこちらに見せて、目を伏せたまま、ふ、と笑った。少しニヒルに見えるその笑顔が、俺は結構好きだ。まあ、俺に限らず大抵の男も女も秀太郎には好感を持つ。背が高く整った容姿に低く落ち着いた声で、余計なことは言わないし、気が利いて頭の回転も早い。どうして長いこと恋人がいないのかは知らないが、モテることは確かだ。まあ、悠ほどじゃあないかもしれないけれど。 (そうだ、悠……)  あいつ、結局あのまま連絡もしてこない。無事に帰れたのかどうか、気にしてモヤモヤするのが嫌で、一人でいたくなくて秀太郎を呼んだのが本当のところだけれど、さすがにそれは言いたくなかった。 「にしても薫が二日酔いって、珍しいな。昨夜は誰かと飲んでたのか?」 「……まあ、うん」 「そうか」  誰と、とか、どこで、なんて。俺が言わない限り、秀太郎も無理に聞き出そうとはしない。そういう、踏み込みすぎないところもいい。あいつとは、大違いだ。 (薫ちゃん、もっと飲もうよ) (おれ、まだ帰りたくないよ、薫ちゃん) (薫ちゃん)  ああ。(うるせえ……)痛む額をおさえて、俺は眉をそっとしかめる。秀太郎に不審に思われない程度に。ズキズキと痛む脳裏に、あいつの大きなビー玉みたいな瞳が浮かんで。 (悠のヤツ……)  お前は昨夜、なんであんなに飲みたがったんだ。十頭身の美形モデルとして活躍し始めて、十分うまくいってるはずなのに、俺に久々に逢うからって甘え倒して、飲んで飲んで、飲みつぶれて。 (薫ちゃんの服、また着たいな、おれ)  あいつ、今頃どこで何してんだ。あんだけ飲んで、俺に絡んで、そのうえ……。 「……大丈夫か?」 「!」  秀太郎の低い声に、現実に引き戻される。目線を上げると、少し心配そうな顔をした相棒が俺を見つめていた。 「大丈夫、だよ。ちょっと、頭が痛いだけ……」 「水、たくさん飲めよ。顔白いぞ」 「……」  頼りになる秀太郎は高校卒業後に留学もしてるから年齢でいうと一つ歳上で、どこか兄貴のようでもあるし、親友でもあり、理解者でもある。こういう男を好きになれば、きっと……。そんな考えが浮かんで、吐息とともに吐き出した。  馬鹿馬鹿しい。俺は秀太郎の飲みかけのハイボールを奪って、ぐいっと煽った。「おいおい」なだめる秀太郎の声も、心の奥底までは届かない。 「あーっ、もういい、迎え酒だ!」 「やめとけって、薫」 「いいだろ、付き合ってくれよ。どうせ家まで送ってくれるんだろ?」 「ったく……好きにしろ」  俺ががし、と肩を掴むと、やれやれ、というように秀太郎が眉を下げた。そうだ、飲んで忘れてしまえ。あんな薄情な、歳下の幼馴染のことなんて。 (悠……覚えて、ねえんだろうな)  何も、なかったんだ。それでいい。連絡ひとつ来ないスマホをテーブルに裏返して、俺はメニューを手にとった。どこまでも飲んでやろうと思った。
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