いつからなんて

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「悠くん、お疲れ様! また明日ね」 「お疲れさまです!」  今日の撮影の仕事も無事終わり、マネージャーの財前さんにぺこりと頭を下げて、おれは地下鉄に乗って家に向かう。繁華街からほんの数駅、ひとり暮らしのマンションは降り立った最寄り駅から徒歩10分程度だ。  急な角度で伸びてくるティッシュ配りの手をするりと避けて、おれは音楽を聴きながら雑踏を歩く。考えてしまうのは、どうしたってあのひとのことだ。 (薫、ちゃん……)  元気かな。結局あれ以来、おれは彼に連絡もできないまま、あっという間に一週間が過ぎてしまった。飲んだ夜の記憶は今も取り戻せなくて、どうしておれが彼と一緒のベッドで裸同然で寝ていたのかはわからない。なんだか怖くて、確かめられないんだ。きっと迷惑をかけたに違いないのに、メッセージひとつ送れないのはそのせいだ。  そしてどうしてだろう、あの日以来、おれは薫ちゃんのことを妙に意識してしまっていて。そうでなかったら、いつもは飲んだり遊んだりした翌日には楽しかったね、また遊ぼうねって電話なりメッセなりしてる。でも、できない、今は。とぼとぼと歩きながら、おれは薫ちゃんのことを考える。 (お前と薫さんって、なんで仲いいのかわかんないな)  何年か前にそう言ったのは蓮だ。それくらい、おれと薫ちゃんは見た目の雰囲気も性格も正反対で。外で遊ぶのが大好きで根っから明るくうるさいおれと、読書や絵を描くのが好きで比較的物静かな薫ちゃん。でも出逢った日から、妙に気が合って。  そうだ。出逢った時のことを、おれは今も覚えてる。両親が離婚して、母親と一緒に引っ越した祖母の家の隣、庭付きの大きなお屋敷に住んでいたのが薫ちゃんの一家だった。引っ越しの挨拶に連れて行かれた時、綺麗な薫ちゃんのお母さんが言った。 (うちの子、薫っていうの。引っ込み思案だけど、仲良くしてあげて)  引っ込み思案、の意味はわからなかったけれど。お母さんのスカートの後ろに隠れるようにしてこちらを見ていた薫ちゃんは色が白くて華奢で、女の子だとおれは思った。こんなに綺麗な女の子は見たことないって、ひと目でそう思った。 (こんにちは。いちのせ、ゆう、です) (俺は……さわむら、かおる) (え? おんなのこじゃないの?) (! ちがうよ!)  俺は、おとこのこだよ。そう言って眉をきりっと上げた薫ちゃんの顔は忘れられない。だってすごく、可愛かったから。ごめんね、っておれが謝ると、いいよ、一緒にあそぼう、って薫ちゃんが誘ってくれて、それからおれたちはすぐに仲良くなった。 (るーちゃん!)  おれは舌っ足らずで、薫ちゃん、とうまく言えなくて。小さな頃はずっとるーちゃんって呼んでた。そう呼ぶのはおれだけだったらしいけれど、それがまた誇らしかった。  (るーちゃん、あそぼ!)  シングルマザーの看護師で、仕事が忙しくて不在がちだった母さんの代わりにおれの面倒を見てくれたのは婆ちゃんだったけど、厳しい婆ちゃんが当時のおれは怖くて、いつも薫ちゃんの家に遊びに行ってよくそのまま泊まった。怖くて眠れない夜も、ふたりでいれば平気だった。おれが怖がると、薫ちゃんは手を握って歌を歌ってくれた。 (薫ちゃん、これ読んで?) (いいよ)  二歳年上の薫ちゃんの家には難しい本も綺麗な絵本も、おもちゃもゲームもたくさんあって、おれたちは時間を忘れてたくさん遊んだ。家政婦さんがおやつを持ってきてくれるし、薫ちゃんは優しくて面白いし、おれは薫ちゃんと遊ぶのが好きすぎて、同い年の友達とはあんまりつるまなかった。  やがて小学校高学年になると薫ちゃんは塾に通い始めたから、おれと遊ぶ時間は少なくなったけど、それでも休みの日には薫ちゃんを訪ねていって、部屋でゴロゴロして過ごすのが常だった。それくらい、おれは薫ちゃんにべったりだった。中学に進んでも彼女も作らず、こんな日々がずっと続くんだと思ってた。それくらい、薫ちゃんといるのが楽で、当たり前だった。 「……ただいま……」  ぼんやりと昔のことを思い出しながら、自分のマンションにたどり着く。鍵を開けて部屋に入って、バッグを決まった場所に置いて、上着を脱いでクローゼットに掛ける。ぼすん、と着替えるのも面倒でベッドの上に座る。ああ。  スマホを見つめて、今日こそ電話をしようかと思う。メッセージを送ろうかと思う。でもなんて送ったらいいかさっぱりわからなくて、薫ちゃんからの連絡もなくて、おれは途方に暮れる。こんなこと、今までなかったのに。ぼうっと座ったまま、おれは記憶の中の思い出をたどる。    高校卒業後、服飾の専門学校に進んだ薫ちゃんだけど、おれの高校バスケ部の試合は時間を作って見に来てくれた。はじめておれがブザービーターでシュートを決めて勝ったあの日も、二階から笑顔で声援を送ってくれた。 (悠、やったな!)  ぶんぶんと二階の薫ちゃんに手を振り返したあの瞬間、誰が喜ぶより嬉しかった。母親が見に来てくれなくても、十分報われた気がした。誇らしかった。 「……」    顔を上げれば、壁にかけてある絵が目に入った。薫ちゃんが、高校時代に美術部で描いた絵だった。詳しい技法はわからないけれど、淡いトーンの色で塗られた、丸くなって眠る兎の絵だ。    タイトルは、『眠兎(MINT)』。今の、薫ちゃんのブランド名のもとになったのはこの絵なんだ。おれがどうしても欲しいって言ってたら、ひとり暮らしの餞別にって、実家を出る時にくれたものだ。   (これ……)  薫ちゃんの高校の文化祭に遊びに行って、美術部の展示でこの絵を見た時、おれにはすぐにわかった。これは、薫ちゃんの愛だ。不器用で言葉が足りない薫ちゃんの、精一杯の想いのあかしだ。眠る兎、それは薫ちゃんがかつて飼っていた、だいじなだいじな兎の姿だった。数年前に虹の橋を渡って、いまは神様の国にいる、けなげで可愛かったあの子だって、おれにはわかってしまって。 (悠? お前、何泣いてるんだよ)  絵に秘められた薫ちゃんの想いに触れて涙をこぼしたおれを見つけて、あなたは照れくさそうに笑っていたね。なんで泣いたか説明できないまま、おれはぼろぼろ涙を流して、薫ちゃんと幼馴染であることを幸せに思った。  だっておれは知ってる、ちょっぴり口が悪くて、人付き合いが苦手で、美しいものを作ることを心から愛するあなたが、本当は誰より優しいってことを。  兎が旅立った日、あなたは気丈に振る舞っていたし、その後そのことを一度も口にしなかったけれど。でもあなたはずっと覚えていたんだ。愛し続けていたんだ。だからこんな絵が描けたんだ……。想いが溢れて、おれは時を超えてもう一度涙をこぼした。薫ちゃん。薫ちゃん、おれのだいじなひと。 「……ほんとおれ、何やってんだろ……」  薫ちゃんをひとり、部屋に残して、何も言わずに飛び出してしまって。それきり何も連絡しないなんて、卑怯者もいいところだ。いつからおれは、そんな人間になったんだよ。ぎゅっと唇を噛み締めて、スマホを握りしめた。
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