いつからなんて

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「……もしもし」  アトリエ兼オフィスを出たところでかかってきた電話に出ると、「もしもし、薫さん? ……今、大丈夫かしら?」と聞き慣れた、少しだけ怯えたような声がした。ああ、この人はいつもこうだったと、約一ヶ月ぶりの電話に俺は内心ため息をつく。 「大丈夫だよ、母さん。帰る途中だから」  俺の家までは歩いて数分だ。帰り着くまでには切れるかなと考えながらスマホを耳に当てて歩いていく。どうせ今日も、何を言いたいのかはわかってる。 「久しぶりね……元気? 体調崩してない?」 「元気だよ。何かあれば連絡するって」  これは大嘘だけど、こうでも言わないと心配性の母からの繰り言は延々やまないので仕方がない。まだなにか言いたそうな雰囲気を制するように、こちらから続ける。 「ああ、そういえば先週、紅茶の缶届いたよ。ありがとう」 「あれね。ご近所さんに教えてもらったお店の、オーガニックのハーブティなの。薫さんは身体が弱いから、温かい飲み物を飲むようにしないとね」 「……そうだね」  もう二十六歳にもなった、とっくに家を出てる一人息子相手に、この人の心配の種は尽きない。別に持病があるわけでも、今や人より身体が弱いわけでもないのに、この人の頭の中では、俺はいつまでも引っ込み思案で病弱な「薫さん」なのだ。たぶんきっと、永遠に。 「薫さん、お仕事は忙しいの?」 「まあ、いつもどおりだよ」 「この前も素敵な雑誌に載っていたわよね、ちゃんと買ったわ……お父さんには、内緒だけど……」 「……」  父の顔色を伺い続ける母と、勝手に独り立ちした息子。決してお互いに憎く想っているわけではないのに、心底では理解し合えないことを噛み締めながら俺は歩き続ける。(内緒、ね……)内緒にしたところで何も解決しないのに、この人にはそうすることしかできないのだろう。 「……ねえ、薫さん」  黙った俺の気配に何を感じたのか、母さんが少し間を開けて俺の名前を呼んだ。何を言うかは、もう大体想像がついて目を伏せる。心が、これ以上傷つかないように。 「よかったら……今度のお父さんの誕生日にでも、うちに帰ってこない?」  毎年の誘いに、俺は思わず、行くわけないだろと大きな声を出しそうになってぐっと堪える。この人にとって、口実はなんだっていいんだ。母の日でも、祖父母の命日でも、父の誕生日でも。俺をあの家に、連れ戻せるのならなんだって。時を過去に戻せるのなら、どんな理由だっていいんだ、きっと。 「ごめん。その時期は忙しくて、行けそうにないよ」 「でも……ねえ、一日くらい……」 「無理。……それに父さんだって、今の俺には逢いたくないよ」  いい加減にしてくれと言いたいのをこらえて、俺は本質をずばりと突いた。たぶん母さんが、一番言われたくないことを。そうしなければ、この電話は終わらない。 「そんなこと……」 「あるよ。はっきり言われただろ。医者になって病院を継がない俺に価値はないって」 「……それは……お父さんは、すごくあなたに期待してたから……」 「その期待に、俺は応えられないってわかってるだろ!?」  もう解放してほしくて、つい強い口調で言うと、母さんが息をちいさく飲む気配がした。泣いているのかもしれない。(落ち着け……)すう、と息を吸い込んで、深呼吸してから続けた。 「……俺はデザイナーになったことを父さんに謝るつもりもないし、父さんが俺に言ったことは忘れない。……他に用がないなら切るよ、家に着くから」 「薫さん……ごめんなさい……」 「謝らないで。母さんが謝る必要なんてないんだから」  本当は、そうじゃないのかもしれないけれど。少なくともこの人は、わずかな糸でもいいから俺と繋がっていようと、絆を繋ぎとめていようという意思がある。もう何年も声すら聞いていない父親と違って。もちろん母のその想いも、あくまで父を怒らせない範囲で、という留保付きだけれど。 (ったく……)  一時的にでもあの家に帰るということは、すなわち俺が父親に、期待を裏切ってすみません、と頭を下げて許してもらうということだ。冗談じゃない。とは思っても、いい歳をしてむやみに母親を傷つけるのも気がとがめて、努めて柔らかい声を出す。 「じゃあね。……母さんも、身体に気をつけて」 「……ええ、ありがとう……おやすみなさい、薫さん」  子供の頃には決して言わなかった、そんなやさしい言葉を置いて、母さんは通話を切った。いつだって家政婦任せで、あなたは病院の婦人会やら習い事やらでいつも忙しかったよね。今になって罪滅ぼしか、と思う冷めた自分が嫌で、苦虫を噛み潰したような顔になりながら俺は自宅の扉を開ける。 「……はあ……」  どっと、疲れた。母親と話すといつもこうだ。肝心のところで、話は通じない。母さんは母さんの望む世界でものを見て、俺は俺の世界に閉じこもっているから。ジャケットを脱ぎ、切ない胸を押さえて、ふう、と息を吐いた時。ブルル、とスマホが震えた。何だ。 「……!」    画面を見ると、【不在着信 一ノ瀬 悠】と通知が出ていて、俺はどくんと鼓動が跳ねるのを感じる。(悠……?)なんで、どうして、今になっていきなり。一週間以上音沙汰なかった幼馴染からの着信に、俺はひどく動揺する。 (ど、どうし……)  どうしよう。すぐにかけ直すべきか、メッセージにすべきか、それとも。悠の行動の意図が読めずに下唇を噛み締めた。なんだよ、なんなんだよ、急に。俺が疲れ切ったその心の隙間に入り込むみたいに、こんなタイミングで……。 (ああ……)  おそるおそる、悠の番号にリダイヤルして、スマホを再び耳に当てる。「……」緊張してじっとり手に汗をかく。心臓が口から飛び出しそうだ。悠。おまえ、なにか覚えてるのか? どうして今、かけてきたんだ? ごくんと生唾を飲み込んだ時、「もしもし、薫ちゃん?」と、あいつのよく通る声が聞こえて。 「……もしもし。悠か?」  わかりきってることを確かめると、「うん、おれだよ」と、少し息が詰まったような声がした。悠、おれの悠。なんでお前は、俺が弱ってる時に、いつもこうして。 「今、どこ? 電話してて平気?」 「もう家だから、平気だよ。どうした?」  精一杯平静を装って、声が震えないようにしながら会話する。あの夜以来だ。悠、なんで、かけてきてくれたんだ。なんで、今までかけてこなかったんだ。言いたいことが溢れそうになって、俺は一生懸命、「歳上の薫ちゃん」の仮面を被ろうとする。そうしないと、涙が滲んでしまいそうで。 「その……あのさ。この前、おれ、薫ちゃんちに泊まった……じゃん?」 「……ん」  突然核心を突かれて、俺は小さく頷くことしかできない。そうすると、悠がいきなりどでかい声で「薫ちゃん、ごめん!」と叫んだ。え? 「ごめん、おれ……きっとすごく面倒かけたのに、起きたらなんにも覚えてなくて、びっくりしちゃって……!」 「……」  ああ。そうだったんだな。思ったとおり何も覚えていないらしい悠が、全部言ってしまえ、というように続けた。 「なんで薫ちゃんちにいるのかとか、全然思い出せなくて……そんで怖くなって、飛び出てきちゃったんだ……お礼も言わなくて、ごめんね、薫ちゃん……」  小さい頃と同じように泣き虫な悠が、きっと今も泣きそうになりながら、懸命に俺に想いを伝えようとしてるのがわかって、俺の胸はぐっと詰まる。なんでお前はいつも、俺の心を切なくさせるんだ。氷みたいな俺の心を溶かして、泣き出しそうにさせるんだよ。胸がいっぱいになりながら、俺は優しい声を作って答える。 「……いいんだよ。お前、ゲーゲー吐いて、酔いつぶれて寝ちまっただけだから」 「えっ……あ、じゃあ、もしかして服着てなかったのって……」 「せっかく部屋着貸してやったのに、俺のにもお前のにも吐いて、着るものなかったから仕方なく、な」 「わー! まじ!? ほんとごめん、薫ちゃん……!」  きゃあ、と女の子みたいな声を出して驚く悠。これはどうやら本当に、何ひとつ覚えちゃいないんだな。俺はそれでいいと思いながら、「気にするなよ」と囁いた。 (悠……)  お前は俺に、優しい気持ちをくれる。夢を信じる強さをくれる。いつだってそうだった、冷たい父親や勝手な母親に傷つけられても、お前がいてくれたから俺はやってこれた。あたたかいものが胸に広がるのを感じながら、俺は微笑みを浮かべて、電話の向こうでパニクる悠に笑い声を届ける。もう、いいんだよ。 「ほんっっとごめん、今度お詫びするから……!」 「いいよ。お前の世話焼くのなんて、何年やってると思ってんだ」 「もー、おれってほんとバカだよね」 「それは昔からだろ」 「ひどっ! ……ねえ、薫ちゃん」 「ん?」  なにかを、悠が言いかけた時。ガチャリと家の鍵が開いて、突然誰かが入ってきた。 「薫、電話しても出ないから来たぞ」 「!」  驚いて振り返ると、合鍵を持ってる秀太郎がそこにいた。いつものように黒一色のモダンな服装にハイブランドの靴を合わせて立つ相棒に、今電話中、とスマホを示して見せる。 「……え……誰か、そこにいるの?」  悠の声が、途端に小さくなった。「ああ、今同僚が来て……いいよ、気にせず話せって」俺が言っても、電話の向こうの気配が急に遠くなったように感じた。 「や……いい、えっと、……また、今度ね」 「え? おい、悠」 「じゃあね、薫ちゃん」 「……!」  ブツ、と通話は向こうから途切れた。悠がいきなり目の前から消えてしまったようで、俺は呆然と立ち尽くす。「お前、俺とのミーティング忘れて帰っただろ」呆れたような秀太郎の声さえも、遠くに聞こえた。
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