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「……」
強引に切った電話の向こうの声が、おれの未練を残すように耳に響いた。(おい、悠!)ごめん、薫ちゃん。おれはまた、卑怯者になって逃げたのかもしれない。
(薫)
電話しても出ないから、なんたらって。薫ちゃんを呼び捨てにしてた低い声が、おれの耳にははっきり届いた。(同僚、って……)なんで同僚が、薫ちゃんの家にまで来るの。薫ちゃんが対応してないのに入ってくるって、鍵を持ってるってことじゃないのか。おれだって持ってないのに。あまりのことに驚いて、動揺のままにおれは薫ちゃんからせっかくかけ直してくれた電話を切ってしまった。
「……なん、だよ……」
同僚って、誰だよ。仕事の話をほとんどしない薫ちゃん、友達や同僚のこともおれには全然話さないから、おれは推測することすらできない。なんだよ、おれが知らないだけで、そんなに親しい人がいたの。低くていい声の、男の人だった……。
(誰、なんだろ)
薫ちゃんのブランド「眠兎(MINT)」は少数精鋭でやってるから、展示会とかでおれが逢ったことがある人かもしれないけど、おれは人の顔とか名前を覚えるのが苦手で思い出せない。あんな声の人が、いただろうか。そうしておれは、何でも知っているつもりだった薫ちゃんのことを、今となってはよく知らない部分があることに気がつく。胸が、ぞわぞわっとざわめいた。
(悠)
おれを優しく呼んで、何も気にしなくていいって言ってくれた薫ちゃん。おれはあの夜、げろげろに吐いてやっぱり薫ちゃんにえらい迷惑をかけてたってことと、裸で寝てたのは単にそのせいだってわかったのはよかったけれど。また気になることができてしまって、おれは全然落ち着かない。
「はあ……」
ため息をついて、おれはスマホの中の写真フォルダを見返してみる。辛い時、寂しい時、挫けそうになる時いつもそうするように。
(薫ちゃん……)
薫ちゃんとおれ、進路は違ったけど、それでもずっと仲良しだった。モデルになろうと思ったきっかけも、薫ちゃんの服飾学校の卒業制作だった。
(悠。卒業制作で俺が作る服を、最後のショーで着てくれないか?)
嬉しかったし、なぜか当然そうなるような気がしていた。報酬なんていらないよって言ったおれに、もし将来モデルになるなら、これが最初の仕事だよって言って、真面目な顔で薫ちゃんはお礼の金額を教えてくれた。そう、それで初めて、本気でモデルになるって道を考えてみるようになったんだ。それまで何度もスカウトはされてたけど、おれにできるなんて思えなくて断っていたのに。
「……」
もう遠い昔のような気がする、卒業制作の記念写真を見つけて、おれはじっと見つめる。薫ちゃんに言われるままに髪を三回ブリーチして銀色に染めて、首にいくつもアクセサリーを下げて、おれは薫ちゃんとそのチームが何ヶ月もかけて作り上げた完璧な衣装をまとってカメラの前に立った。
最初、何をどうしたらいいのかもわからなくて、バシャバシャとシャッターを切られても戸惑うばかりで。すがるように薫ちゃんを見ると、こう言ったんだ。
(その服を着て感じる想いを、お前が表現するんだ。お前ならできるよ、悠)
それでおれは、その衣装を着た時に湧き上がってきた勇気と物語のイメージを、自分自身の肉体と表情で精一杯表現した。何百枚も撮った中から薫ちゃんが選びに選んだ一枚が、今目の前にある。結果として、卒業コンテンストでグランプリになった作品が。
(最高だよ、悠。お前に頼んでよかった!)
ありがとう。ショーの後、めずらしく頬を紅潮させた薫ちゃんにそう言われたのが嬉しくて、モデルになろうって決めた。薫ちゃんが、おれの進む道を照らしてくれたんだ。あなたはおれの月、おれのお星さま。なのにどうして、おれは電話を切ってしまったんだろう。でも、だってさ。
「……薫ちゃんの、ばか」
なんだよ。あの家に来た男、誰だよ。妙に悔しくて、おれはぽすん、とクッションで自分の顔を叩いた。ばかばか。バカはおれだ。ああもう、どうしたらいいかわからない。
* * * *
「うわっ、死人みたいな顔。ちゃんと寝てんの!?」
「……あんまり……」
雑誌の撮影の現場で逢った親友の蓮が、だろうね、と変顔で答えた。蓮はおれに比べると小柄だけれど、その分顔も小さくてバランスが良くて、人気の読者モデルからこの雑誌の専属になった。ロケバスで並んで座っていると、マネージャーの財前雄輝さんが朝ごはんを届けてくれる。
「はい、悠くんと蓮くんのぶん。……悠くん、目の下やばいね」
「すいません……」
結局、あの後おれは昔の思い出を写真アルバムからたどるのに夢中になって、全然朝方まで眠れなかった。思い出の中では、おれと薫ちゃんはべったりくっついて、なんの屈託もなく笑い合っていて。どうしたらあの頃に戻れるんだろう、いや、今だっておれが勝手に意識してるだけで、何も変わってないのかもしれないけど。
「いつもより念入りに、メイクさんにマッサージしてもらって。あとほらこれ、栄養ドリンク」
「あい」
「蓮くんはバッチリだね、今日も可愛いよ」
「えへへ。雄輝さんに言われると嬉しいな~」
何が雄輝さん、だよ。おれと蓮は同じ事務所で、蓮や他の子をまとめて担当してる現場マネージャーが来られないときは、財前さんが蓮の面倒もみてるから、すっかり懐いちゃってこのざまだ。
いつもパリッとしたスーツに焦げ茶色のふわっとした前髪を横分けにして、整った優しい顔立ちの財前さんは男女問わずモデルから人気があるけれど、おれからするとちょーっとだけ、蓮を贔屓してるような気がしなくもない。まあ、そんなことは今はどうでもいい。
「……」
薫ちゃんからは、あれきり連絡はない。勝手に電話切っちゃって、怒ってるかな……そんなことで怒るほど薫ちゃんは狭量じゃないってわかってるけど、それでも気になるんだ。今日は何してるんだろう、家に来た男と今日も逢ってるのかな……。もぐもぐとサンドイッチを食べながらぼうっと考えてると、隣に座った蓮がちょん、と肩で肩をつついてきた。
「悠。お前、まじで大丈夫?」
「え、なにが?」
「超、上の空じゃん。今日、一日撮影だけど平気?」
「……」
(わかんない)
そんなの、もう、わかんないよ。栄養ドリンクを飲みながら、おれはむうっと口を尖らせる。だって、頭の中も胸の奥も、ひとりのことでいっぱいで。
「ほんとにおかしいって。いつロケの日は元気でノリノリなのにさ……何かあった?」
「……別に……」
蓮には、あれっきり薫ちゃんの話はしていない。誰にも話せない。ずっとずっと、あのひとのことが気になってるなんて。だって、だって……。
(薫、ちゃん……)
綺麗で潔くて、かっこいいおれの幼馴染。おれの、薫ちゃん。この気持ちがなんなのか、名前をつけられるものならつけてほしいと思った。胸が切なかった。
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