いつからなんて

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「……っ、はぁ……」  深夜になっても眠れなくて、おれはひとり暗闇の中で寝返りを打つ。スマホを見ようかとも思ったけれど、どうせこんな時間は誰も起きてないし、SNSのタイムラインだってたいして動いちゃいない。連絡も来やしないだろうと思うと、おれの胸は切なく痛む。はあ。 (お前には、興味ない)  びっくりするくらい、冷たい声だった。その声に俺の心は切り裂かれて、その傷口は何日経ってもまだ生々しく開いたまま、見えない血を流している。 (幼馴染としか、思ってない)  どうして、おれはそう言われる瞬間まで、そんな可能性を少しも思いつかなかったんだろう。薫ちゃんを好きなんだと気づいた時、迷わずにそれを口にした時、なぜか拒絶されることなんて思いもしなかった。  きっと薫ちゃんは、薫ちゃんなら、受け止めてくれるってどこかで信じていた。だから今、涙がにじむんだ。思い描いた幸せが、現実にならなかったから。 「……ぐす……」  鼻をすすって、口元まで布団を引き上げて、歯を食いしばって耐えようとする。初めての、失恋。いままで適当に、告白されるままに付き合ってきた女の子たちには抱いたことのない強い気持ちで、恋していると気づいた、その数分後にはもう拒まれてた。薫ちゃんに、あんな辛そうな顔をさせてしまったことも切なくて。 (薫、ちゃん……)  わかってる。薫ちゃんは優しいひとだから、きっとおれを傷つけたと思って、今もきっと苦しんでるんだろう。眠るように兎が亡くなった夜、おれが泣いていいよというまで涙のひとつも零さなかったのに、何年も後になってその兎の絵を生き生きと描けるくらい、一途で繊細なひとだから。    そんなふうに薫ちゃんとの記憶を掘り返すほど想いは募って、おれの涙は止まらなくなる。だめだ、明日だって撮影なんだから。目をこすらないようにティッシュでおさえて、唇を噛みしめる。モデルって辛いな、こんなに切ないのに思い切り泣けないなんて。でも、おれが選んだ道だ。薫ちゃんに照らされて、見つけた夢だ。それすらしっかりやりきれないなら、好きだなんて言う資格はない。 「……ふ、……」  泣くのを堪えても、苦しくて熱い吐息が漏れる。誰より綺麗で優しい薫ちゃん、いつまでも幼かった頃のように、おれにだけ優しければいいのに。切れ長の琥珀色の目、長い睫毛、白い肌にほっそりした指先。全部が好きで、好きでたまらない。  今更気づいたって遅い、叶わぬ恋だ。気づかなければよかった。言わなければよかった。そうしたら、ずっと変わらずに、そばにいられたかもしれないのに……。 (悠! よくがんばったな!)  おれに背中から抱きついてくれた薫ちゃん。もう、あの頃には戻れないの。     *    *    *    * 「薫。まだ帰らないのか?」  金曜日の夜。低い落ち着いた声に振り返ると、少しだけ心配そうな顔をした秀太郎が立っていた。真夜中、月明かりもほとんどない夜。ガラス張りのオフィスは肌寒くて、俺はもうこんな時間かと思った。時間を忘れて、仕事に没頭していたせいだ。 「ああ……」 「随分、根詰めるな。来週でもいいんじゃないのか?」 「……」  何かをしていないと、つい考えてしまうから。あいつのことを、あの大きな瞳を、あの涙を。ひとりでがらんとした部屋にいるのも辛くて、ここ数日はほとんど家にはいなかった。朝方シャワーを浴びて着替えに戻るくらいで、仮眠もオフィスでとっていた。秀太郎は、全部知ってるだろう。その相棒が、近づいてきてぽん、と俺の肩に大きな手を置いた。 「……飲みにでも、いくか?」  物静かな秀太郎から俺を飲みに誘うときは、大概決まってる。俺が追い詰められてるときだ。悠の次に俺を理解しているこの男には、かなわない。はあ、と息を吐いて、「そうだな」と答えた。確かに、飲みたい気分だった。 「まだやってる店、あったかな」 「俺んちでいいよ。帰るのめんどくさいだろ」 「じゃあ、そうするか」  やりかけだった作業を終わらせて、PCもシャットダウンして。秀太郎があちこち片付けて、一緒にオフィスを出て鍵を締める。セキュリティシステムを作動させて、俺と秀太郎は並んで歩いて、近くの俺の家に向かう途中でコンビニに寄る。適当に酒とつまみを買って、マンションにたどり着き、自室に入って電気をつける。 「……」  この家に人を泊めるのは、あの夜以来だ。ふいに記憶が蘇る。悠、おまえ、結局ぜんぶ忘れちまったんだな。あの日に何があったのか。俺がおまえに何を言ったのか。それでいい、それでいいんだ。言い聞かせて、俺は自分の中の迷いと戦う。 「乾杯」 「ん」  かちん、と酒を移したグラスを鳴らして、俺はくいっと一口飲む。(悠……)秀太郎といても、考えるのはあいつのことばかりだ。  いつからなんて、わからない。悠、俺はおまえだけのために、おまえだけを頭に描いて服を作ってきた。奨学金で服飾学校に通って、首席で卒業して、夢を叶えるために走り続けてきた間も、ずっとずっと。 「薫……何か、あったんだろ」 「……」  親に愛されなかった俺を、悠はまっすぐな瞳で見つめてくれた。わかってる。俺に執着して見えるのは悠のほうでも、本当に必要としてるのは俺のほうだって。ぐいっと煽った酒のせいもあって、俺はとうとう、何もかも誰かに打ち明けてしまいたい気持ちになる。 「……幼馴染が、いるんだけどさ」  ぽつりと話し出すと、やっと話す気になったか、というように秀太郎が整った顔を和らげて俺を見つめた。話すなら、こいつがいい。こいつしかいない。 「知ってる。卒業制作のコンテストで、モデルやったあの子だろ」 「ああ……そう。そうだよ……悠、っていうんだけど」 「一ノ瀬、悠だっけ。モデルとしても人気出てるよな」  秀太郎が珍しく饒舌なのは、俺の心が折れて話すのをやめてしまわないようにだろう。それに励まされるように、俺はそうだよ、と頷く。そうだ。もうあいつは、おれだけの悠じゃない。業界じゃ名前も売れて、指名されることだってしょっちゅうあるって聞くし、これからもっともっと、羽ばたいていくはずなんだ。あいつには、それだけの魅力と才能がある。 「その悠くんが、どうかしたのか」 「……好きだって、言われた」  俺が言うと、秀太郎がわずかに整った眉を上げた。器用に片方だけ。それは、この冷静な男にしてみれば大変に驚いたということを表すのだけれど。俺はふたたび向き合わなくちゃならないこの事実を思い起こして、ずんと暗い気持ちになる。 「で?」 「……断った。興味ない、幼馴染としか思ってない、って……」 「嘘だろ」  ずばり、と本質を秀太郎が突いた。こいつは、本当のことしか言わない。本当のことから逃げない。俺はぐっと詰まって、眉を寄せた。 (悠……)  そうだ。嘘だ、嘘だよ。大嘘だ。涙がまたこみ上げて、目尻を拭いながら俺が「なんでわかった?」と強がると、秀太郎が「わかるよ」とだけ答えた。理由は教えてくれなかった。それくらい、俺ってわかりやすいのか。騙せるのは、純粋無垢な悠くらいか。 「なんで、断ったんだ? あの子のこと、大切に思ってるんだろう。いつまで経っても、ポートフォリオの一枚目はあの子じゃないか」 「……俺は、ゲイだけど……あいつは、多分違う」 「それはお前が決めることなのか」 「いいんだよ! これで……これでいいんだ。俺は、あいつにはふさわしくない……」  俺は呻いて、両手で顔を覆った。(悠)好きだよ。愛してるよ。だけど俺は、おまえにふさわしくない。俺みたいなゲイじゃないおまえは、きっともっと、素敵な女の子と出逢えるはずなんだ。女手で育ててくれた大事なお母さんに、可愛いお嫁さんと孫を見せてやれ。そうなるべきなんだ、おまえは、俺なんか放って、どうか幸せに。 「……ッ」  頭をおさえて、苦しくて顔を歪めると、涙が滲んだ。「……うっ……」なんで俺は、秀太郎の前でまで泣いてるんだ。酔っ払った頭じゃ何も考えられなくて、俺はただ涙を流した。秀太郎がそっと、胸元から白いハンカチを出して俺に渡して、そして言った。 「……それくらい、大事なんだな、彼のことが……」  そうだよ。そうなんだよ。一人息子を医者にしたかった父親からどうしても愛されなかった心の傷も、癒やしてくれたのは悠のひたむきな笑顔だった。俺を追いかけて、俺を愛して、俺を認めてくれた大きな瞳。おまえを想うと胸が苦しくなる。こんなに愛しているから。でももう、遅いんだ。何もかも……。秀太郎の貸してくれたハンカチに涙を吸い取らせて、俺はため息をついた。 「……言ったのか? 例のことは」    優しく低い声で、秀太郎がささやく。「前に言ったよ。でもあいつ、酔ってて何も覚えちゃいなくて……」それきり俺も、二度とは言い出せなくて。そう答えると、全て察したのか、秀太郎はそうか、とだけ呟いた。何も追い打ちをかけない優しさが嬉しかった。 「悪い。ハンカチ、洗って返すな……」 「やるよ。というか、もともとお前にもらった生地で作ったやつだし」 「ああ、……そうだったっけ……」  濡れたハンカチは、たしかに学生の頃、俺が見つけて秀太郎に少し分けてやった生地で出来ていた。こいつ、こんなものよく、いまだに持ってたな。 「……今夜は、とことん付き合ってやるよ」  いつも俺に優しい秀太郎がそう言って、俺のグラスに酒を注いだ。そうだ、もう潰れて、何もかも忘れてしまえ。悠の悲しそうな瞳を打ち消すように、俺はまたグラスを煽った。
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