いつからなんて

9/14
前へ
/14ページ
次へ
 眩しいフラッシュが、おれの目を焼く。涙はとっくに枯れ果てて、おれは抜け殻のようになりながら仕事をこなしていった。 「いいよ、……目線、ちょっと下げてみて」  言われるがままに動き、着せられる服に袖を通し、髪やメイクを直され、何十枚と写真を撮られる。おれは人形になってしまったような気がして、カメラマンの言葉に笑顔を作りながらも、心はどこかに置いてきていた。  あのひとのことは、名前も思い出したくない。おれに応えられないと言ったひと。おれが誰よりも恋してるひと。柔らかな黒髪、まっすぐな切れ長の瞳、薄い唇、左耳だけのピアス。思い出したくない。忘れてしまいたい。仕事をしている間や、誰かといる間は忘れられる。おれはただそれだけの理由でモデルの仕事に打ち込んだ。 「なんか、雰囲気変わったね。悠くん」    スタジオでの撮影を無事に終えて、メイクを落として私服に着替えたおれのところへ、カメラマンの室井亮介さんが近づいてきて言った。デビューした頃からおれをよく知ってる人気カメラマンで、長い髪を後ろでくくった、おしゃれで格好いいひとだ。 「……そうですか?」 「うん。なんていうか……昔はきらっきらの、太陽って感じだったけど……」 「暗くなりました?」  疲れもあって半分自嘲気味におれが言うと、「ほら、今のそれ」と室井さんが節立った長い指でおれを指した。え? 「前はそんな顔しなかったよ。なんていうか……陰が出来てきたね」 「……」  そうなん、だろうか。そんな事言われたのは初めてで、おれがなんと言い返したらいいかわからずに黙り込むと、室井さんが細い目をくしゃっとさせて笑った。 「いやいや、褒めてるんだよ。色気が出てきたってこと」 「え、……?」 「いままでは少年の名残があったけど、なんだか急に大人っぽくなったし……仕事の幅も広がるんじゃない? 今日撮ってて思ったよ」 「そう、ですか……」  意外だった。仕事では厳しい室井さんに面と向かって褒められたのもこれが最初で、おれがぽりぽり頬を指でかくと、室井さんが「今日はもうこれで終わり?」と尋ねてきた。そうです、と頷く。 「僕も、今日はもう上がりなんだ。近くで一杯どう?」  くい、と指で見えない盃を傾ける仕草で、室井さんが誘ってきたので、おれは少しびっくりした。室井さんは公私を分けるタイプというか、モデルを誘って飲みに行ったりはしないほうだと思っていたから。でも……。 (帰って、ひとりになるよりは、……)  孤独になると、どうしたって考えてしまうから。「いいですね」と答えて、おれは笑顔を作ってみせた。それを見た室井さんが、また目を細めて笑う。目尻に皺が浮かんで、このひとってそういえばいくつくらいなんだろうと、ぼんやり思った。     *    *    *    * 「室井さんて、結婚してるんですか?」  ビールを一気飲みして気分が良くなったおれは、早くも三杯目を飲みながら、前から聞いてみたかったことを室井さんに尋ねてみた。他にもモデル仲間やマネージャーとか呼びましょうか、という提案を断った室井さんが、カウンターで並んで飲みながらふっと片頬だけで笑った。 「してたよ。もう何年も前に別れたけど」 「あ……」 「気にしないで。子供はいないよ、ちなみにね」 「はあ……すいません、なんか」    そっか。こんなに格好いいんだし、普段は穏やかで業界でも人気あるから、てっきり妻子持ちかと思ったおれがバカだった。謝ると、くすっと微笑んだ室井さんが首を振る。 「ううん。……悠くんは? 恋人いるの?」 「……っ」  恋人。あえて室井さんが、彼女、という言葉を避けたような気がして、おれはぐっと黙り込む。(恋人……)なってほしかった、ひとはいた。運命の相手だと思った、そういうひとがいた。おれは目を伏せて、優しい室井さんに打ち明ける。 「……好きなひとは、いました。……思いっきり、フラれましたけど」 「へえ? 悠くんを振る子なんているんだ? ……同業?」 「違います。っていうか……まあ、同じ業界ではありますけど、モデルとかカメラマンじゃなくて……」  穏やかな声に引き出されるように、おれは訥々と言葉を続ける。室井さんが、ぴんときた、というように顎を上げた。 「ああ、作るほう? 雑誌、WEB? 服?」 「服飾の、デザイナーです……おれの、幼馴染で……」  おれ、何を話そうとしてるんだろう。意外なほど話しやすい室井さんの前で、ついぽろっと口がすべって。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。それくらいずっと、あのひとのことが頭にあった。心の奥にあった。だから。 「……薫ちゃん、っていうんです。二歳年上で……」 「ちょっと待って。もしかしてそれって、『眠兎(MINT)』の沢村薫?」 「!」  ずばり言い当てられて、おれは目を見開いて室井さんを見る。認めたも同じだ。なんでわかったの、と言いたげなおれの表情を読み取ったのか、室井さんがやれやれ、というように頭を振った。 「……なるほど、ね。噂は聞いたことがあったんだ、沢村薫のポートフォリオに、デビュー前の君が載ってるって」 「はあ……」  そんなに、有名な話だったのか。まあそれに、同年代で薫って名前の有名な若手デザイナーといったらあのひとしかいない。うかつだったな、と思いながらおれが唇を瞑ると、そっと囁くように室井さんが言った。 「……好き、だったの? 本気で?」  問われてじっと、おれは自分のグラスに浮かんだ氷を見つめる。薫ちゃん。この氷みたいに冷たかった。おれを突き放して、それきり連絡もくれない。おれも連絡できなくて、このまま絆は切れてしまうのかって、それが怖かった。考えたくなくて、逃げ続けて、もう何日も。黙り込んでいると、室井さんがまた声を発した。 「違うか……好きなんだね。まだ、今も」 「……っ」  (ああ)そうだ。そうなんだ。決して言えない、もう伝えられない、届かない想いが溢れて、おれは胸の奥がずきんと痛むのを感じた。 (薫ちゃん)  もう二度と、逢えないかもしれない。薫ちゃんとおれ、いつだって一緒だったのに。目がうるうると潤むのがわかる。泣くな、悠。もうあのひとのことで、泣くのはやめるんだ。 「……好き、です……でも……おれには、興味ないって……」  幼馴染としか、思えない。例の冷たい一言を思い出して、涙を堪えて眉を寄せるおれの髪を、そっと室井さんが長い指で触れた。ふ、と目を細めてまた微笑む。 「……本当、純粋な子だね。せっかく口説こうと思ってたのに、気が抜けちゃったよ」 「え?」  今、なんて。おれが驚いて顔をそちらに向けると、室井さんが肩をすくめてウイスキーを煽った。 「あの、室井さん……?」 「まあ、今の『眠兎(MINT)』の状況じゃ、仕方ないかもね。沢村くんにとっては、大きな一歩なんだし」 「?」  何の話だろ。おれが目をぱちぱちさせると、「……もしかして、知らないの?」今度こそ驚いた、というように、室井さんが目を丸くした。     *    *    *    * 「……たッ!」  がつん、と薄い段差に躓いてよろけて、おれは自分の家の玄関に膝をついた。「……っ」息がうまく出来ない。どうやって帰ってきたのかも、よく覚えていない。 (ああ……)  そうだ。タクシー代のおつり、今度逢った時、室井さんに返さなくちゃ……。そんな雑事が浮かんで、ふらふらと立ち上がって靴をぼとぼとと脱ぎ、短い廊下を歩いてワンルームの部屋に入る。どさりとバッグを置いて、力なくベッドに倒れ込んだ。酒臭い息を吐き出して、ぎゅっと目をつぶる。頭がぐらぐらした。 (うそ、だよね)  いろんなことがいっぺんに、ぐちゃぐちゃに頭の中に浮かんで、おれは吐きそうになるのをぐっと堪える。叫びたいことは、ひとつだけ。 (うそでしょ、るーちゃん)  どうしておれに、何も言わないで。小さなるーちゃんの人見知りな瞳が浮かぶ。おれが守ってあげたるーちゃん。女の子みたいだったるーちゃん。夢を叶えた薫ちゃんは、今度は。室井さんの言葉がよみがえる。 (『眠兎(MINT)』は来季から、海外に拠点を移すって聞いたよ)  だから、おれを突き放したの。(薫ちゃん……)あなたは、行ってしまうの。何も知らなかったのはおれだけ、世界中でひとりぼっちになった気がして、もう涙さえ出なかった。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加