2つの未来

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 僕は、中学からの家路を急いでいた。  電車の中ではずっとラノベを読むのに夢中で気付かなかったけれど、プラットフォームに降りたらあたりは夕焼けの茜色、――というよりは何だか毒々しい血の赤一色に染められていた。  それに東の空を見上げると、赤の絵の具に間違って落とした黒がどろどろ広がってしまったようなブキミな雲に覆われていて、まさに魔王が登場しそうな風景。  そう、僕はラノベが好きだ。  物心ついたときから、家にはラノベがあった。  はじめは、お兄ちゃんのラノベを借りて読んでいた。  それで、すぐに夢中になった。  そのうち、自分の小遣いで自分の好きな新刊を買うようになった。 駅を降り、商店街を抜けると、すぐに住宅地になる。 この時間帯のことを「逢魔が時」というのだと、国語の授業で習った。 夕闇が支配し、「魔」と「逢う」時刻なのだ。 桜の古木の下、四辻を折れた向こう側、生垣の陰、そこここに、夕闇が吹きだまっている。 魔物が潜んでいそうなところ。 ラノベのファンタジーではお馴染みだけれど、実際には、「魔物」などいない。 そんなの、分かっている。 僕は小学生のオコチャマでも、中2病でもないのだ。 でも僕は「魔物」が好き。 キャラデザインを考えたり、設定に凝ったり、どこのシーンでどんな魔物を出すのかに頭をひねるのが、とても楽しい。 実は、主人公のヒーロー、ヒロインよりも、魔物を想像するのが好きだったりして。 そんなわけで、僕は、ラノベ作家になりたいのだ。 そして今日は。 家に帰ったら、いま書いているラノベを仕上げなくてはならない。 ラノベの新人コンテスト。 大賞受賞者は、メディアミックスで、商業出版してくれた上に、アニメ化も約束されている。 その締切が、今夜の11時59分なのだ。 急ぎ足だったのが自然と駆け足になり、――それで僕は、暗がりで誰かにぶつかってしまった。 「あ、ごめんなさい」  そこは特に闇が濃く深くて、その人の様子が僕にはよく見えなかった。  どうやらその人は男の人のようで、おじいさんではなく、また、お兄さんでもなく、その中間あたりの歳らしい、それくらいしか分からなかった。  でも、その人が僕を見て、息をのむのが分かった。 「きみは……」  男は絶句した。  僕には男の顔が見えないけれど、男には僕の顔が見えるようなのだ。 「きみは今、何年生だ?」  男は尋ねた。  僕はちょっと気味が悪かったけれど、 「中3ですけど」  いちおう、正直に答えた。 「もしかして、今日は11月30日か?」 「はい、そうですけど」 「ああ、こんなことがあるのか」  男は喜びと哀しみの入り混じったような、複雑な声色になった。  男は僕が電車で読んでいて、そのまま持っていたラノベに目を留めた。 「その本、面白いよね」  ちょっと意外だった。  僕の周囲の大人たちで、ラノベを読む人はあまりいなかったから。 「はい、――いま、僕の一押しです」 「それ、ストーリー展開が意表をついてくるよね。自分の予想していたところに行かないで、その斜め上に飛んでいくっていうか」  びっくりした。  それはまるで、僕の抱いていた感想そのままだったから。 「おじさん、ラノベ読むんですね」 「読むよ。子供の頃から大好きだった」  あれ?  このおじさんの子供の頃にもラノベはあったのか。  そりゃそうだ。  ラノベ、その前身になるティーンズ向けのファンタジー小説の、日本での歴史は結構長いのだから。  僕はその男に少しだけ気を許して、言った。 「ついついラノベ読んで徹夜しちゃって、授業中居眠りして怒られたり」 「そうだなあ、そうだったなあ。――まるで、つい昨日のことのようだよ」  話しているうちにも、夜がどんどん住宅街に降ってきて、僕たちを包む闇もまた、どんどん濃くなってきていた。 「きみは、ラノベ作家になりたいんだろう?」  男は尋ねた。 「そう、――ですね」  僕は照れ隠しにちょっと笑いながらも、頷いた。  男は少しの沈黙の後で、硬めの口調になって言った。 「いま、ここに2つの未来がある。1つは、こんな未来だ。きみはラノベ作家を目指す。きみは若くしてデビューを果たし、書下ろし作は平積みになり、現役中学生作家誕生として脚光を浴びるだろう」  ワオ!  もし本当にそんなふうになったら。  僕が、しょっちゅう夢想している未来だ。  でも。  男は続けた。 「だがきみは、とても多くのものを捨てなくてはならない。それは意図して捨てる時もあれば、意図せずに捨ててしまっていることもある。そうして、たくさんの可能性をもまた、失っていく」  ちょっと――、嫌な感じ。  男の話は続いた。 「しかも、きみが浴びる脚光は、長くは続かないかもしれない。デビュー数年で売り上げは落ち、商業出版の話は無くなっていく。ついにはただのライターとして雑誌やWEBに安い宣伝記事を書いて、なんとか糊口をしのぐだけの毎日になってしまう」  現実は厳しい。  それは、僕だって知っている。  そもそもデビューするのが大変だし、それにデビューしたからといって、人気が出るとは限らず、人気が出てもそれが続くとは限らないのだ。  男は声の調子を落としてさらに続けた。 「そんな生活の中できみは、ふと、数十年前、中学生作家と騒がれた日々を思い出す。華やかな授賞式。取材を受けたり、ファンレターにサイン会。ただそれは、実際は、毎年の新人賞であちこちで繰り返されているものでもある。でも、きみにとっては一生の記憶だ。忘れえぬ、遠い過去の栄光。――それは、年を重ねて雑文書きとなり、希望を失ったきみにとって、甘い記憶だろうか。それとも苦い記憶だろうか。どっちだろうね?」  そう聞かれても……。  なんだか、全然楽しい話ではなくなっていた。  僕はただ、かぶりを振った。  闇はさらに深くなり、男はなおも続けた。 「さて、もう1つの未来だ。きみは、ラノベ作家を目指さない。きみは、基本的に真面目で勤勉な人だ。勉強も、そこそこできる。ラノベ執筆にのめり込まなければ、そこそこの高校に進学し、そこそこの大学へ進み、そこそこのサラリーマンになるだろう。そこできみは、とてもありきたりだけれど、でも、確実で堅実な生活を手にする」  分かっている、それがずっとありそうな未来。  しかも、父さんや母さんが安心する未来。  でも。  男は続ける。 「もちろん、サラリーマン生活だって楽じゃない。職場での板挟み、パワハラ、モラハラ、リストラをかわしながら、きみは消耗し、疲れて果てていくかもしれない。そんな時きみは、ふと会社帰りに立寄った書店の店頭で、ラノベの新刊に目を留めるだろう。少年時代に、あんなに夢中になったのに。それなのに、もうずいぶんと長い間、手にも取っていないなあと。ちょっとの間、思い出に耽るかもしれない。でも、それだけだ。もうきみには、あの頃に夢中になったラノベのストーリーを思い出すことはできない。たとえ再読しても、あの興奮が蘇ることは二度とないだろう」  うーん。 こちらの未来も、今の僕にとって、幸せな将来像には全然見えなかった。  正直、2つの未来のどっちも選びたくない。  いやあな気分が表情に出ていたのだろう。  男は苦笑を漏らした。 「不満そうだね?」 「1つ目の道で、ずっと人気を保ち、おじさんくらいの歳で大御所になっている、みたいな未来が良いです」 「そりゃね、そうなればそれが一番いいけど。でも、なかなかね」  ん?  この人、もしかして……。 「おじさん、ラノベ作家なんですか?」  僕はそこに「売れない」という修飾語を挟みそうになり、あわてて省いた。 「うん、まあ」  おじさんは言葉を濁す。  そうだ。  やっぱり、そうなんだ。  たとえ今、売れていないんだとしても、作家なんだったら、それはやっぱり僕にとっては尊敬の対象だ。  創作し続けること。  闘い続けていること。  憧れだ。 「すごいっすね」  でも男は、僕の賞賛に、ちっとも嬉しそうではなかった。  男は、結局、自分がラノベ作家かどうかをはっきり答えることはなかった。 そしてその代わりに、静かに僕に告げた。 「きみは、今晩、ひとつの選択をすることになるだろう」  何だか予言者みたいだった。 「選択、ですか」 「きみは今晩、必死になって原稿を仕上げて、今日締め切りのラノベの新人コンテストに応募しようとしている」 「なんで知って!?」 「うん、知ってるんだ」  男は鷹揚に頷く。 「だが今晩、きみの家に一本の電話がかかってくる。もしきみが、その電話の用件を優先するのなら、コンテストへの応募は出来なくなる。その先に待っているのは、2つの未来のうちの後の方、つまり平凡なサラリーマンの未来だ」  男はそこで一度言葉を切り、僕をちょっとの間、値踏みするように見つめてから言った。 「だがもしきみが、電話の用件を無視して原稿を仕上げ、それを期限ギリギリでメールして応募するのなら、――1つめの未来、つまり、ラノベ作家としての人生が待っている。ただしそれは、――一瞬の輝きで終わるもの、かもしれない」  なんか、この人の不吉な予言じみた話を聞いていたら、腹が立ってきた。  それに、――怖くなってきた。 「もう行きますから」  僕は話を打ち切って歩き出そうとした。 その時だった。  僕たちの横をヘッドライトをつけた車が通り過ぎた。  瞬間、男の顔が見えた。  僕はその顔に見覚えがあった。  その顔に似た誰かをよく知っていた。  それは誰だ?  それは――、僕だ!  その、40過ぎくらいの男は、僕にとてもよく似ていた。  家に帰り、夕食を3分ですませると、僕は自室に籠った。  原稿を仕上げて、応募するんだ。  絶対に間に合わせる。  その一方で、さっきの男の言葉が、ずっと頭の奥の方にひっかかっていた。  脚光を浴びられる時間は短く。  いずれは宣伝記事の雑文書きになり。  そうでなきゃ、職場で板挟みに苦しみ、もう二度とラノベの興奮も味わえない。  そんな選択肢。  2つの未来。  そして、今晩かかってくるという電話。  電話――!  家の固定電話が鳴った時、僕は大袈裟ではなく、椅子から飛び上がりそうになった。  電話には、母さんが出た。  僕は部屋のドアをうっすらと開け、電話の様子に耳を澄ませた。  母さんの声は、切羽詰まった感じで、しかも応対する口調は段々に深刻さを増していった。  数十秒で電話を切ると、僕と目が合った。 「伸ちゃん」  母さんは僕を呼んだ。 「おじいちゃんの容態が急変したって。今夜、危ないって」  おじいちゃんは、先週から、手術のために入院していた。  手術は成功し、大丈夫だろうと言われていた。 「わたし、これから病院に行くけど、伸ちゃんはどうする?」  おじいちゃんにとって孫は僕たち兄弟だけで、とても可愛がってもらった。 「お兄ちゃんは?」 「まだ予備校だけど、メールして、直接病院に向かうように伝えるわ」  母さんの目が、伸ちゃんも行くわよね?と言っていた。  そう、僕は、母さんと一緒に、病院に行くべきなのだ。  でも。  僕はコンテストに出したかった。  まさに精魂込めて書いた小説。  すごく、手応えがあった。  今回は賞を取れるんじゃないかって。  どうすれば。  どうすればいい?  さっき会った男は、この電話のことを既に知っていた。  だからつまり、男は、僕の未来を知っていた。  男は多分、――未来の僕だ。  中学生で華々しくデビューして、そして程なく失速して消えていったラノベ作家の、僕だ。  まったく違う2つの未来。でもどちらも、全然バラ色には見えない未来。  平凡で退屈な人生なんて御免だ。  そのくせ、僕は怖い。 僕のラノベの人気は一瞬で無くなり、あとは落ちていくだけで、そうして、逢魔が時に会ってしまった、あんな男になるのは、怖い。  だったら、いったい、どうしたらいいんだ!  僕の未来。  それを僕は変えることが出来るのか。  それとも。  僕は、どちらに足を踏み出すべきなのか分からずに、ただただ、そこに立ち竦んでいた。
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