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病院で検査してもらった結果、擦り傷くらいで他は何ともなかった。それはそうだ、俺は結局トラックには轢かれなかったのだから。
それよりもユウが心配だ。俺は病院を飛び出すと、必死になってユウを探した。いつもの植え込みを一番に探したが、そこにユウはいなかった。部屋にもいない。他に行くあてなどないはずなのに、どこを探してもいないのだ。まるで最初からいなかったように、ユウは忽然と姿を消してしまった。
「ユウ……ッ!」
身体は疲れ切っているのに、ベッドに横になっても眠れない。
あいつはどこへ行ってしまったんだろう? 無事だろうか? 怪我などしていないだろうか? でも──。
あいつは本当に存在していたんだろうか。
突然目の前に現れて、俺をパパと呼んだ。俺がパパでなどあるはずがないのに。
ユウは俺の妄想だったんだろうか。
現実だ、いや夢だ、考えてもどうしようもないことが頭から離れない。答えなど出るはずがない。だってもうあいつはいないのだから。
ユウがいなくなり、俺は元に戻った。無気力無感動、何の興味も関心も持てないような抜け殻に。
一見すると何も変わらないだろう。だって、ユウの前以外では俺は俺のままだったから。ユウにつられるように、笑ったり怒ったり焦ったりと心を動かせたのは、ユウの前でだけだった。
一度動いたものがまた動かなくなる。どこかで落としたものをせっかく拾ったのに、また落としてしまった。それは思いの外堪える。見た目は変わらなくても、俺だけはわかってる。俺は今、とんでもなく後悔し、参っているのだ。
ユウに会いたい。
俺はどうしてあいつを手放そうとなんてしたんだろう──。
無味乾燥な生活が続いていく。ただ漠然と生きていくのは楽だけれど虚しい。俺は空っぽのままだ。
大学を卒業し、就職をしても何の変わり映えもない。このままずっと、あとどれだけの年数を生きていかねばならないのだろうと、俺は人生にうんざりしていた。
「はじめまして、須藤さん」
朝出社すると、初めて見る顔と出くわした。聞くと、俺が出張に出ている間に入社した派遣社員とのことだった。
彼女の顔を見た時、誰かの面影と重なる。とても懐かしく、ポカポカと心が温かくなる。
誰だ、誰だったか……。
「村上悠香と言います。三日前からこちらでお世話になっています。よろしくお願いします」
ニッコリと笑った顔、そして名前の響きで思い出した。
彼女はユウに似ている──。
俺は動揺を隠せず不審な動きをしてしまったが、彼女はただ笑ってくれた。彼女の笑顔は明るく優しい。俺はあっという間に彼女に恋をした。
俺はあの手この手で彼女の気を引き、ついには手に入れる。これほど女性に対して必死になったことはなかった。
彼女の側だと心が動く。楽しい、嬉しい、悲しい、そして彼女に対する興味は尽きない。
俺たちは順調に交際を重ね、結婚をする。周りからすると、それは電光石火のようだったらしい。
結婚してすぐに彼女は妊娠し、会社を退職した。彼女は無事に出産を終え、俺はその知らせを受けて出張先から病院に直行だ。
息を切らしながら案内された病室へ辿り着くと、中から元気な赤ん坊の声が聞こえた。
「悠香」
「将生!」
彼女は優しい母親の顔で、小さな赤ん坊を抱いていた。
「悠生、パパが来てくれたよ」
「この子が……俺たちの子か」
「そうよ。可愛いでしょ?」
「あぁ、本当にめちゃくちゃ可愛い……」
うっかりすると泣いてしまいそうだ。昔の俺なら考えられない。
俺は食い入るように悠香に抱かれる赤ん坊を見つめる。すると、赤ん坊がこちらを見てニッと笑った。
「え!?」
「どうしたの?」
「いや……」
気のせいだろうか。この赤ん坊は今、俺に向かって生意気な笑みを見せたのだ。
「んぎゃあっーーー」
赤ん坊が突如大声で泣き出す。驚いて彼をじっと見つめる。すると。
「あれ、将生が見たら泣き止んだ。この子、会ったばかりなのにもうパパのことが大好きなのね」
悠香がおかしそうに笑っている。赤ん坊もニコニコとしている。
二人の笑顔を見て、ようやく腑に落ちた。どうしてこんなに大切なことがわからなかったのだろうか。
二人の笑顔と重なるもの、それは──ユウの笑顔。
「ユウ」
「あーっ」
「嘘! 返事した!」
驚く悠香を横目に、俺は赤ん坊にそっと手を伸ばす。その小さな手に触れると、きゅっと力強く俺の指を握ってくる。
あぁ、本気で泣きそうだ。
この子は俺がずっと会いたかった子だ。ずっと探していた。誰よりも会いたいと願っていた──ユウだ。
「やっと会えた」
「あーあーっ」
ユウは機嫌よく声をあげる。やっとわかったのか、そう言いたげな顔だ。
俺の中で全てのことが繋がった。
ユウはたぶん、今日という日のために過去の俺の前に現れたのだ。あの事故から俺を救うために。馬鹿なことをと思うが、そうとしか考えられなかった。
ユウと出会ったこと、ユウを失ったこと、悠香との出会い……それらは全部、神様からの贈り物なのだ。
「将生」
「あ……」
自分でも気付かないうちに頬が濡れていた。悠香が側にあったタオルをそっと差し出してくる。俺はそれでゴシゴシと涙を拭い、二人に笑みを向けた。
「これからは、三人で幸せになろうな」
そして、心の中で呟く。
──ユウ、あの日俺の前に現れてくれて、本当にありがとう。
了
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