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寄せては返す波の音が絶えず聞こえている。オフシーズンの海辺は寂しいものだ。天気のいい休日だというのに、海岸にはほとんど人がいない。犬の散歩をする老人が一人。幼い子を連れた母親らしき女性が一人。防波堤で釣りを楽しむ男性が一人。
海岸の柔らかな砂の上を歩き、水平線をぼんやりと眺める。吹く潮風に冷たさを感じて、思わず肩をすくめた。太陽は既に傾き始めていて、少しずつ水平線に近づいている。夜が来るのが憎らしくて、寂しくて堪らない。だが、あまりの空しさにため息も涙も出なかった。
「藤野さん」
不意に背後から声をかけられて、私は振り返る。駆けて来たのは一人の青年だ。彼を見た瞬間、私の心には罪悪感と共に気が狂いそうなほど熱いものがこみ上げた。彼は手にペットボトルのドリンクを二つ、持っている。
「あったかいのがいいかなと思ったんですけど、大丈夫でした?」
「うん。ありがとう……」
別に喉が渇いたとか言ったわけではないのに、彼は海岸の傍にある駐車場入り口の自動販売機まで行って、飲み物を買ってきてくれたようだ。受け取ったペットボトルの緑茶は温かく、自分の手が思いの外冷えていたことに気付く。
「なんだか僕、喉渇いちゃって……」
私は目を細める。自分でも気づかなかったが、そういえば昼を食べてからもう三時間は経っている。喉は渇いていたし、腹も少し減っていた。
「おれも、喉渇いてた……かも」
「やっぱり。いっぱいお話しましたもんね」
東京都内のファミリーレストランで昼食を済ませて、彼の車に乗り、約三時間のドライブをしながら、私達は千葉県の外房の海へやって来た。遠くへ行きたいと言ったのは彼で、海を見たいと言ったのは私だった。
「ごめんね……」
「いえ、全然! 話してくれてよかったです」
彼が笑う。はつらつとした、明るい笑顔だ。車の中では私の愚痴と泣き言が延々と続いていたのに、どうして彼はこんなにも満足気なのだろう。
「藤野さん。僕、その辺ちょっと散歩してくるんで。もし車戻りたかったら戻っててください。キー渡しときます」
「あぁ……、でも――」
「好きなだけいていいですからね」
そう言って彼はその場から去る。やはり笑って、私に初めて入ったボーナスで購入した大切な車の鍵を託した。まるで、ここへ必ず戻ってくることを約束してくれているかのようだ。そういう彼を見ると、やはり私は罪悪感に襲われる。大切なパートナーを裏切っていることを確認させられながら、同時にそれがどうでもよくなってしまうほど、彼への想いに狂いそうになるからだ。
「おれは、最低だな……」
そう。本当に最低だ。どちらも選べずにいる自分に私はそう言い放つ。私はパートナーというものがありながら、彼に惹かれているのだ。苦しい現実から目を背けたくて、逃げたくて、だがどうしようもなく、こうして彼に甘えながら、彼といる未来を漠然と願っている。
自分がまさかこんな複雑な感情を持つことになるなんて思いもしなかった。理性は堅い方だと自負があったし、人の道から外れたことは決してすまいと決めていた。浮気も不倫も、低俗な人間のすることだと信じて疑わなかった。
それなのに、今の自分はまさにそれになってしまっている。低俗で、悪で、情けない男だ。けれど、微塵にも過去へ戻りたいと思わないのは、きっと彼を失いたくないからなのだろう。彼がいてくれる、この途方もなく生産性のない時間と、関係が惜しいのだ。私は砂浜に立ち尽くし、彼と出会った頃――。数ヶ月前のことを思い出す。
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