第一章 海辺のキス~藤野浩也~

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「今日からお世話になります。藤野(ふじの)浩也(ひろや)です。よろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします。風見(かざみ)()()です」  若いな……。  若い。それが第一印象だった。少なくとも二十代前半――いや、下手をすれば十代にも見える彼は、まだ真新(まあたら)しい社員証を首から()げて、にこやかな笑顔を私にくれた。身長は私よりも少しばかり彼の(ほう)が高かった。差があったとしても数センチくらいだろう。百七十七か、八か。顔は小さく、体はすらっとした細身だが、筋肉質で華奢(きゃしゃ)な印象はない。目鼻立ちは整っていて、端正(たんせい)な顔つきをしている。表情の柔らかさからは、人当たり、人柄(ひとがら)の良さも感じた。  しかし、やはり若い。大人――というより、青年と呼んだ(ほう)相応(ふさわ)しい。まだ子どもだ。とにかくそういう印象が強かった。ただし外見と年齢には似合わず、彼の口調や雰囲気は不自然なくらいに落ち着いていた。ひょっとしたら苦労人なのかもしれない。私はふと――そんなことを思った。 「とりあえず、社内を案内しますね。何か気になる事があったら何でも聞いてください」 「ありがとうございます」  夏から新しく入った職場は、これまで興味すら持ったことのなかった、(おも)にスポーツ用品を取り(あつか)う中小企業だった。なぜ興味もないジャンルの会社を勤め先に選んだかというと、生活の為に、希望通りの時間帯で働くのに、そこは(てき)していたからだった。  午前八時半から午後五時半までの実働八時間勤務。長年やり()れている事務作業。早出(はやで)も残業もなし。給料も決して高くはないが、公務員よりはよかった。三十五歳、事務職にしか(たずさ)わったことがなく、特別、(かがや)かしい経歴もない。そんな男を希望通りの好条件で(やと)ってくれる所はなかなか見つからず、私は職安(しょくあん)(すす)められたそこに、何の迷いもなく決めたのだ。 「そういえば藤野さん……」 「はい?」 「主任からお聞きしたんですけど、前は公務員さんだったんですか?」 「えぇ、まぁ……。公立の中学校に勤めていました」 「へえ。事務をやられていたんですよね? 十年間……」 「ええ……。そうですけど……」  質問(しつもん)()めに()い、私は身構(みがま)える。私が公立中学校の事務員として勤めていた年数は約十年。正しくは十二年である。しかし、一体彼のその質問の意図は何なのだろう。それを考えながら、私は次に(たず)ねられることを素早く脳内で想像し、(あわ)てて答えを用意していた。  なぜ公務員という安定を手放してまで、前の仕事を辞めたのか。前の職場で何かあったのか。大方(おおかた)、彼が(たず)ねたいのはそういったところだろう。  もちろんそれらにはすべて理由があったが、とても軽々(かるがる)しくは話せないものだった。そうは言っても理由というものは面接をする時には必ず必要になるので、それらしい理由を作って履歴書(りれきしょ)に書いておいたのだが、やはりあれは()(とう)な理由としてみればいささか苦しかったかもしれない。 「それが何か……?」  おかしいですか? という言葉は()んで、私は身構(みがま)えたまま、風見さんの顔を(うかが)う。だが、風見さんは目を(かがや)かせて言った。 「すごいですね! 十年――ってことは少なくとも藤野さん、三十は超えてるってことでしょう?」 「は――?」 「今、三十一……とかですか?」 「いえ。来月で三十五になります」 「うそ、三十五! 全っ然見えない……! 失礼かもしれないんですけど、僕、最初に藤野さん見て、あれ、新しい社員さんって新卒だったっけ、って思ったんですよ!」  新卒(しんそつ)。それはこちらのセリフだ。そう私は思う。お言葉だが、鏡の前に並んで立てば、きっと彼の(ほう)余程(よほど)新卒者に見えるはずだ。しかし、年齢こそ若くとも彼は(すで)に社会人。そう言っては彼のプライドを傷つけるだろう――と、私は「そっちこそ」という言葉をごくりと()み込んだ。 「藤野さん、若いって言われません?」 「はぁ……。言われます……。時々……」 「でしょう? 僕より十五も上なんて信じられないなぁ」  私も信じられなかった。私と十五歳離れているということは、彼はまだ二十歳(はたち)そこそこではないか。まさかこの会社は新卒者に新人教育をさせるのか、と不安になったものの、彼はどうやら入社三年目で、高卒でこの会社に入った、ということだった。
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