第一章 海辺のキス~藤野浩也~

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 しかし同時に、そして勝手に、私は想像した。若くして働くことを選んだのには、やはりそれなりに理由があるのかもしれない。この(とし)で公務員を辞めて、()(した)しんだ職場を去って、興味もなかった会社で働くことを希望した私のように。それなりに何かを(かか)えて、(ある)いは背負(せお)って、()らぬ苦労でもしているかもしれない。 「今日は基本的な仕事の流れを(つか)んでもらえれば大丈夫です。リラックスして、まずは環境に慣れるように頑張ってみてくださいね」 「はい」  廊下を歩く彼の少し(うし)ろをついて行って、返事をすると、風見さんは私に振り返り、再びこちらをまじまじと見つめた。そして「ほんと若いですね。美魔女の男バージョンだ」とわけのわからないことを言って笑った。ただし、彼のその笑みに(うそ)(いつわ)りはなく、私は、あぁ、この男は間違いなく、純粋で善人(ぜんにん)なのだ――と、そう信じることができた。彼の笑顔はそれほどに(けが)れのないものだった。私はあまりに純粋そうな彼に何と返したらいいのかわからず、ひとまず愛想(あいそ)(わら)いを返した。  童顔のせいだろうか。私は三十を()ぎても初対面の人間に「若い」とか「まだ大学生みたいだ」とよく言われた。だがアラフォーになってまで大学生ほど若年(じゃくねん)に見られるのはあまり気持ちのいいものでもなく、単純に幼いと言われているような気がしてならない。女ならまだしも、私は男だ。とても()められているようには感じなかった。ただし、その時の風見さんの言葉には嫌味(いやみ)もお世辞(せじ)もなかったことは確かで、彼が私を純粋(じゅんすい)な気持ちで()めようとしてくれていることは、伝わった。 「あれ?」 「はい」 「ご結婚されてるんですね」 「あぁ……、はい。まぁ、一応……」  思わず左薬指の指輪を右手でなぞった。結婚しているのは真実なのに、妙に(うそ)()いたような気分になる。返事を(にご)してしまって、変に思われただろうか――と私は風見さんの顔を(うかが)う。だが、彼はやはり柔らかな笑みを私にくれて、「いいなぁ。結婚かぁ」と暢気(のんき)に言った。 「ただいま」  風見さんと出会った日。私は無事に初日の勤務を終え、誰もいないアパートの部屋に帰った。時刻は夕方六時半頃だった。玄関には二匹の猫の置物と一緒に、(うす)(ほこり)(かぶ)った写真立てが置かれ、二人の男が満面な笑顔で写っている。一人は私。もう一人はパートナーの神崎(かんざき)隼人(はやと)。隼人とはここで二人暮らし。私達は、同性間でパートナーシップを(むす)んだ、同性愛カップルだ。  この写真を撮ったのはちょうど十年前の夏だった。それを見れば、私は一日のうち、何度も当時のことを思い出す。あの頃は良かった。戻れるなら戻りたい。だがもう戻れないのだろう。(あきら)めるしかない。(あきら)めろ。そればかり思う。これはもはや日課だった。  いつも通りのつまらない日課を終えると、すぐに気を取り直して私はリビングへ向かう。カーテンが閉められた部屋の中はサウナのようだった。今日の日中、外気温は三十五度を超えていたから無理もないだろう。誰もいなかった部屋の中は()し暑く、息を()うのも億劫(おっくう)になる。私はエアコンのタイマーをかけておくべきだったな、と反省しつつ、リビングのエアコンを点けて、ソファに荷物を置いた。 「六時半か……。そろそろ夕飯、作らないと……」  (ひと)(ごと)(つぶや)いて、ふと――。朝、水をやり忘れた植木に気付いて水をやる。子どもを作れない()わりに二人の(つな)がり、かすがいになるものが欲しくて、購入したサンスベリアである。この部屋はペットの飼育が禁止されていたし、そもそも隼人は動物の飼育にさほど興味はなかった。だから、特段(とくだん)引っ越すということもなかったわけだが、その()わりに私は、観葉植物を購入したのだった。
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