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しかし同時に、そして勝手に、私は想像した。若くして働くことを選んだのには、やはりそれなりに理由があるのかもしれない。この歳で公務員を辞めて、慣れ親しんだ職場を去って、興味もなかった会社で働くことを希望した私のように。それなりに何かを抱えて、或いは背負って、要らぬ苦労でもしているかもしれない。
「今日は基本的な仕事の流れを掴んでもらえれば大丈夫です。リラックスして、まずは環境に慣れるように頑張ってみてくださいね」
「はい」
廊下を歩く彼の少し後ろをついて行って、返事をすると、風見さんは私に振り返り、再びこちらをまじまじと見つめた。そして「ほんと若いですね。美魔女の男バージョンだ」とわけのわからないことを言って笑った。ただし、彼のその笑みに嘘や偽りはなく、私は、あぁ、この男は間違いなく、純粋で善人なのだ――と、そう信じることができた。彼の笑顔はそれほどに穢れのないものだった。私はあまりに純粋そうな彼に何と返したらいいのかわからず、ひとまず愛想笑いを返した。
童顔のせいだろうか。私は三十を過ぎても初対面の人間に「若い」とか「まだ大学生みたいだ」とよく言われた。だがアラフォーになってまで大学生ほど若年に見られるのはあまり気持ちのいいものでもなく、単純に幼いと言われているような気がしてならない。女ならまだしも、私は男だ。とても褒められているようには感じなかった。ただし、その時の風見さんの言葉には嫌味もお世辞もなかったことは確かで、彼が私を純粋な気持ちで褒めようとしてくれていることは、伝わった。
「あれ?」
「はい」
「ご結婚されてるんですね」
「あぁ……、はい。まぁ、一応……」
思わず左薬指の指輪を右手でなぞった。結婚しているのは真実なのに、妙に嘘を吐いたような気分になる。返事を濁してしまって、変に思われただろうか――と私は風見さんの顔を窺う。だが、彼はやはり柔らかな笑みを私にくれて、「いいなぁ。結婚かぁ」と暢気に言った。
「ただいま」
風見さんと出会った日。私は無事に初日の勤務を終え、誰もいないアパートの部屋に帰った。時刻は夕方六時半頃だった。玄関には二匹の猫の置物と一緒に、薄い埃を被った写真立てが置かれ、二人の男が満面な笑顔で写っている。一人は私。もう一人はパートナーの神崎隼人。隼人とはここで二人暮らし。私達は、同性間でパートナーシップを結んだ、同性愛カップルだ。
この写真を撮ったのはちょうど十年前の夏だった。それを見れば、私は一日のうち、何度も当時のことを思い出す。あの頃は良かった。戻れるなら戻りたい。だがもう戻れないのだろう。諦めるしかない。諦めろ。そればかり思う。これはもはや日課だった。
いつも通りのつまらない日課を終えると、すぐに気を取り直して私はリビングへ向かう。カーテンが閉められた部屋の中はサウナのようだった。今日の日中、外気温は三十五度を超えていたから無理もないだろう。誰もいなかった部屋の中は蒸し暑く、息を吸うのも億劫になる。私はエアコンのタイマーをかけておくべきだったな、と反省しつつ、リビングのエアコンを点けて、ソファに荷物を置いた。
「六時半か……。そろそろ夕飯、作らないと……」
独り言を呟いて、ふと――。朝、水をやり忘れた植木に気付いて水をやる。子どもを作れない代わりに二人の繋がり、かすがいになるものが欲しくて、購入したサンスベリアである。この部屋はペットの飼育が禁止されていたし、そもそも隼人は動物の飼育にさほど興味はなかった。だから、特段引っ越すということもなかったわけだが、その代わりに私は、観葉植物を購入したのだった。
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