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実のところ、私が長年勤続した中学校を辞め、働き方を変えたのには、そういう余計なことを考えなくて済むように、耳にしなくて済むように、という理由が主だった。職場が同じというのは時に残酷なもので、知らなくていいことも耳に入ってくる。だが、いる環境が違えば、知らなくていいことは知らないままで済む。そう思ったのだ。
そういうわけで、私達は結婚五年目から既に、世間でいうセックスレス夫婦となって今に至っている。結婚すれば家族になるのだから、いつまでも恋人気分ではいられない。そう彼も言ったが、私は当時、まだ三十。隼人は三十五。このまま、隼人に愛されることなく――否、誰からも愛されることなく、残りの人生を終えることを思えば、それは途方もなく寂しかった。
「ただいま」
「おかえり」
玄関のドアが閉まる音の後、彼の声がして、私は振り返る。隼人が帰宅したのは、夜、七時を過ぎた頃だった。木曜、金曜は帰宅が深夜になることがほとんどだが、火曜日は帰宅時間が七時過ぎと決まっている。どこにも寄り道をせず、帰って来ている証拠だ。恐らくだが、行きつけの風俗店が定休なのだろう。
その日の夕飯はカレイの煮つけだった。皮ごとすりおろした生姜と砂糖醤油で味付けしたそれは私の得意料理だった。これを作ったのは久しぶりだったが、なかなかいい出来栄えだった。味噌汁は隼人の好きな豆腐とネギ。副菜や漬物もちゃんとある。隼人は一汁三菜が当たり前の家庭で育った為、こういう食事が好みだった。
「夕飯は?」
「今日はカレイの煮つけ。スーパー行ったらさ、なめたガレイがすごく安くて――」
「魚かぁ……。肉はないのか」
言葉を遮られるように返されて、私の手が止まった。ごく、と唾を呑む。
「あ……、今日は、ごめん……。肉はなくて魚だけなんだ。肉がよかった?」
「いいよ。俺、ちょっとコンビニで唐揚げ買って来るわ。先にメシ、食べてていいから」
「……うん。わかった」
隼人が再び部屋を出て行って、私はガスレンジの火を止める。ふっくらと仕上がったカレイの煮つけは、目の前でほかほかと湯気を出していた。私はそれを眺めながらため息を吐き、保存用タッパーに移す。なめたガレイにもひどく申し訳ない気持ちになって、「ごめんな」と謝る。隼人が帰ってくる時間を見計らって丁寧に作ったメインディッシュは、明日以降のおかずに持ち越されることになった。
仕方なく隼人の分の食器だけをテーブルに伏せて置き、私は自分の食事の支度をした。一人、テーブルの席に着き、「いただきます」と言ってから味噌汁をすする。気にすることではない。こういうことは珍しくないのだ。同棲当初、隼人は苦手な食べ物もほとんどないかのように私の作った食事を残らず平らげていたものだが、ここ数年は非常に気分屋で、その時食べたいと思ったものしか食べなくなった。
そもそも、クセの強いハーブはもちろんのこと、かぼちゃやさつまいもといった甘みのある野菜や、冬瓜やニガウリなど瓜全般、芋類、そして水菜やほうれん草といった葉物野菜など、彼の苦手なものは多くあり、こだわりも相当強かった。野菜だけではない。一度冷凍した肉は食べたくないとか、豚のロースは嫌いだとか。彼のルールはとにかく数え切れないほどある。
食事を作るのにもなかなかに苦労したが、そこに気分が加わるようになったものだから、これが余計に難しかった。因みに、彼は魚料理が嫌いというわけではない。単に今日は肉を食べたい気分だった――というだけのことだ。
作ったものを好きな人に食べてもらえず、冷まして冷蔵庫へ入れなければならないのは本当に悲しいものだが、これも仕方ない。隼人は既に同居人と化しているにもかかわらず、私との生活を続けてくれている。時々風俗へ行くだけで、ちゃんと毎日帰って来てくれるし、浮気をしているということもなさそうだ。本当なら彼は、美人な女性と結婚して、子どもだってできて、温かい家庭を作れたかもしれないのに。今すぐこの生活をやめることだってできるのに。それでも私といる人生を選んでくれているわけだ。だからと言って、そこに後ろめたさや恩を感じているわけでもないが、彼の気持ちに応えたいという気持ちは少なからずある。こういうのを惚(ほ)れた弱み、というのかもしれない。ただし、それが愛情かと問われると、今はもう、わからなくなった。
――未だに旦那の食べたいものがわからないなんて、ダメな妻なんだろうな……。おれって。
毎週そう感じる日が三日はあった。はりきって唐揚げを作った日には「食欲がないから白飯と味噌汁でいい」と言われ、出来立ての唐揚げを冷まして冷蔵庫へ仕舞ったこともある。しかしもう、そういうことにもすっかり慣れてしまった。十分ほどして再び帰宅した隼人は、すぐにコンビニの唐揚げをつまみにして、酒を飲みながら訊ねた。
「それで? 新しい職場はどうだったんだ」
「良さそうなところだった。教えてくれる人も優しそうだったよ。随分若かったけど」
「若かったって、いくつくらい?」
「二十歳くらいかな」
二十歳、と聞くや否や、隼人は目を丸くした。だがすぐに「なんだ、まだ子どもだな。バイトくんかよ?」と笑った。私は年齢が若いというだけで笑われた風見さんを庇いたくなって「若いのにしっかりしてたよ」と返す。しかしこの時、隼人と私は考えもしていなかった。風見真矢というまだ二十歳過ぎの青年が、私達二人の間に深く関わり、運命の流れを変えてしまうことになるとは――。
水平線に太陽が沈んでいくのを眺めながら、私は笑みを零した。確かに、隼人の言う通りだと思った。風見さんは若い。まだ年齢は二十歳で、社会人になって三年目だ。彼にはこの先、素晴らしい未来が待っている。まだ見ぬ誰かと恋をしたり、仕事で成功して、幸せになれる。その選択肢が彼にはあるのだ。自分とは、とても釣り合わない。――いや、これは釣り合う、釣り合わないという問題ではない。もったいない。彼はアラフォーの既婚者と遊んでいる場合ではないのだ。
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