一線

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  「入る前に、約束して」  沙也加はあるビルの前で立ち止まると、そう呟いた。  祐也が振り返る。私は二人の様子を、息を止めて見つめていた。 「ちゃんと、はっきり言って。恵と別れるって。そうじゃないなら私、あんたを警察につき出すから」  祐也はそれを聞いて、ニヤニヤと笑い出す。 「できんの? そんなこと。お前に」 「……できる」 「嘘つけよ。お前、俺のこと好きなくせに」  祐也がそう断言すると、沙也加は一瞬、言葉を詰まらせた。 「誰が、あんたなんか!」 「そんなこと言って、お前、いつも俺の言いなりじゃん。俺が指示するとこうして、今日だってのこのこやってきた。友達想いの顔して近づいてきたくせにさ……こういうの、ミイラ取りがなんとかって言うんだろ」  沙也加は反論しなかった。ただ、肩にかけたバッグの持ち手を強く握っていた。  そのことが、余計に私の心を凍らせる。 「……ねぇ。あんた……恵のことどう思ってるの? 昔は会社で、〝うちにはお姫様がいるんだ〟なんて堂々と言ってたくせに……。大切にする気、あるの? 今日だって、恵……うちで待ってるんでしょ」  沙也加がうつむきながら呟く。消え入りそうなその声に対し、祐也はわざとらしく大声を上げた。 「お姫様?」  大通りに、祐也の乾いた笑いが響いた。 「今うちにいんのは、気が狂ったブスだよ。色気もねぇし、頭もおかしいから一緒にいる気にもなんねぇわ。まぁ、お前がしばらく俺に付き合ってくれるんなら、あいつはそのうち解放してやるよ。もう飽きたしな」  そう言うと、二人はホテルへと入っていった。  *    ——どうやって、部屋に戻ってきたのだろう。  気づくと、私はマンションへと戻ってきていた。  周囲には、(おびただ)しい数の白い線が浮かんでいた。私を取り囲むように引かれたその線は、もう消えることがない。線の先には、いろいろなものが落ちていた。  包丁。  カッター。  祐也のネクタイ。  あらゆるものと私を、線が隔てる。まるで、その先には行くことは重罪だと言うかのように。これ以上進むな、とでも言うかのように。  その線の先には、同じ単語が浮かんでいた。 〝自殺者〟 「やめてよ!」  私は叫ぶと、視界に何も入らないように床の上に突っ伏した。  真っ暗になっても、線は瞼の裏にまで現れた。線は何重にも重なり、すべてを真っ白に染めていく。目を閉じても開けても、世界は何も変わらない。  私は無意識に宣言していた。 「……私は死んだりしないわ。この部屋から出たりもしない。だって、私は祐也のお姫様なんだもの。キラキラした、かわいい奥さんなんだもの……」  そう言いながら、頭の隅では理解していた。  その願望は、願望のまま終わるということに。  ——本当に?  なれると思ってる?  祐也のお姫様に……。  なりたかった。でも、もう難しいのかもしれない。だって私はもう、飽きられたのだから。  ……もし、なれないのだとしたら……。  
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