一線

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   私がその〝線〟をはじめて見たのは、いつの頃だっただろう。  幼稚園に通っていた頃だろうか。それとも小学生の頃だろうか。いずれにしても、それは生まれた時から存在していたのだと思う。気づいた頃にはもう、私の目の前には〝線〟があった。  白くて、太い線だった。  幅はというと、ちょうど手のひらをめいっぱい開いたぐらいだろうか。それは時折地面の上に現れては、私の行く手を阻むかのように左右に伸びた。まるで〝止まれ〟の合図のようだ。校庭に引かれた石灰のように、妙に主張をしてくる線だった。  その線に阻まれると私は前に進めない。いや、進まない、ことにしていた。  何故かというと、その線の向こうに見える文字が気になるからだ。文字はいつも、路面標示のように地面の上に寝そべっていた。  今現在は、こう書かれている。 〝殺人犯〟 「——おい。今日は肉にしろって言ったよな?」  不意に右肩に強い衝撃が走り、気がつくと私はフローリングの上に倒れていた。  それと同時に、視界がぐらぐらと揺れ始めた。突然の衝撃に平衡感覚が失われたらしい。強い吐き気に耐えながら顔を上げると、祐也がじっと私を見下ろしていた。声は怒気を孕んでいるのに、顔は無表情なのが祐也のいつもの怒り方だった。  いつのまにか、〝線〟は消えていた。  さっきまで、台所と私の間を遮るように引かれていたのに。どこにいってしまったのだろう。いつもそうだった。その線は、私にアピールするだけしておいて、私が認識するとすぐに消える。よくわからない存在だ。  私は床に這いつくばったまま、どうにか謝罪の意思を伝えようと、額を床につけた。 「ごめんなさい。メールもらってたの、忘れてた。今から作り直すから」 「遅ぇよ、この役立たずが」  今度は脇腹を激しく蹴られた。息が止まるような激痛に、唇から、う、と声が漏れる。  その行為は何度も、何度も行われた。下の階の住人に声でバレないよう、口を押さえて耐えしのぐ。そうして横たわっていると、流しの下、床の上に包丁が転がっていることに気づいた。  先ほど、私が落としたものだ。鍋用の白菜を切りながらぼんやりしていたら、手が滑ったのだった。そんな調子だから、私はいつも祐也の機嫌を損ねてしまう。もっと、ちゃんとしないといけないと思う。  そう反省する気持ちとは裏腹に、視線は何故か包丁から離れようとしなかった。  無意識に、それを拾おうと手が伸びる。だけれどすぐに我に返った。  また、目の前に〝線〟が現れたからだ。  ——線の向こうには、行ってはいけない。  それは、私の中で絶対の掟だった。一線を、超えてはいけない。あちらとこちらは別世界。私が、違う〝何か〟になってしまうのだから。  線の向こうに浮かび上がる、〝殺人犯〟の文字。でも、私は殺人犯になりたいわけじゃない。  私がなりたいのは、〝お姫様〟。  いつも魅力的で、キラキラしたお姫様。祐也に愛される、素敵な奥さんだ。  伸ばしかけた掌を弱々しく握ると、徐々に意識は遠のいていった。  
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