レモン

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 あたしは胡坐をかき、ブロック塀に寄り掛かった儘、現実逃避とばかりに目を瞑った。その際、中年女が乗る自転車のリアキャリアに取り付けられた籠の中に入っているレジ袋から一つのレモンが飛び出して転がり落ちるのが瞼に映った。  私は路上生活者だけに貧乏性が染みついているから儲けたと思ってレモンを拾いに腰を上げ、実際に拾ってみると、不思議と痛んだところはなかった。まるで私の手のサイズに合わせて仕立てたんじゃないかと思う程、しっくりと掌に収まるし、ジャストヒット感が心地よくて妙に馴染む。で、何やら途轍もなく相性の良さを感じていると、無数の毒蛇を思わせるブレイズヘアで小粋に決めた綺麗な女性があたしの前にやって来た。 「あなたの考えてることが手に取るように分かるわ」  彼女はいきなりそう言うと、あたしのことを言ったはずなのにレモンを見つめ出した。その目は宝石のように輝いたかと思うと、邪眼と言うのか、魔眼と言うのか、つまり、眼が見たものを石に変えてしまうというメドゥーサと言いたくなる程の目力を持ち始め、独特のブレイズヘアと相俟って奇怪な雰囲気を全身から漲らせた。と同時に不思議なことにレモンがカチカチに固まって来てずっしりと重みを増したのである。色形はレモンの儘だが、まさか本当に石になってしまったのだろうか。 「あなた、梶井基次郎の檸檬という小説を読んだことがあるでしょう」   確かに図星を差しているので彼女がさっき自分で言った様にあたしの心の中をお見通しなのだと悟ったあたしは、レモンをカチカチの重い物体に変化させたのも魔力によるものに違いないと信じることが出来て、「はい、読んだことがあります」と素直に答えた。 「では、梶井基次郎が丸善でしたようにしてみなさい。私の言っている意味が分かるわね」  そう言われてあたしは基次郎が丸善店内の美術の棚がある所へ行ってレモンを引き立てようと手当たり次第、棚から画本を抜き出して重ねて行き、その頂にレモンを置き、その儘にして丸善を立ち去り、丸善に時限爆弾を仕掛けたように思って愉快になる、そのくだりが頭に浮かんで、「丸善って京都の丸善じゃなくてマーサ21の東館3階にある岐阜県下最大級の書店のことですか?」と事細かに聞き返した。 「そうよ」 「と言うことはつまり、このレモンを丸善へ持って行って重ねた画本の上に置けばいいんですか?」 「そうよ。あなたは梶井基次郎と同様に百貨店を快くないものに思うようになったわね。だからマーサ21を爆破したいんでしょう」 「えっ、と、と言うと、つまり、このレモンをさっきあたしが言った様に置けば、レモンが本当に時限爆弾になって・・・」 「そうよ。あなたならそう分かると確信してたわ。だからレモンを拾ったあなたの下へ私はやって来てレモンに魔力を与えたの」 「あ、あなたは何者なんですか?」 「そんなことより、そのレモンはあと一時間で爆発するんだから今から直ぐに実行しないと、首尾よく事が運ばないわよ」  確かに距離から見てあたしが現時点からマーサ21の丸善へ行ってレモンを仕掛けて無事逃げ果せるには今直ぐ走って行かなければいけないに違いないと思われたので、「わ、分かりました!やってみます!」とあたしは叫ぶや否や、形振り構わず駆けだした。  あたしは何を隠そう基次郎の愛読者。だから基次郎の為にも見事、成し遂げて見せようと、やる気満々で突っ走った。と言っても途中で何回か信号待ちはあったけど、街中でも人目を憚らず、寧ろ燃え立つような怒りを溜め込むために冷笑する人の目を自分の目に焼き付けながら横町を抜け、忠節橋通りをまるでペルセウスが愛用した空飛ぶ翼が付いたサンダルを履いたかのように飛ぶように爆走した。  そうしてマーサ21敷地内に進入して膨れ上がったレジ袋を手に提げてほくほく顔で帰る客を見ては散財ぶりを想像して体の贅肉を落とすことばかりに気を取られてないで心の贅肉を落とすことに励めって言いたくなりながら東館に入ってエレベーターで3階に上がった。  エレベーターを出た際、擦れ違った男にも冷笑され、あたしはそれまでに溜め込んでいた燃え立つような怒りが爆発しそうになりながら丸善書店に入った。  あたしは勝手知ったるように少しも迷わず基次郎が好んだ画本の類の絵画に関する本が並んだ棚の所に来て抜き出した5冊を横に重ね置くと、その頂にレモンを置いた。  すると、方錐型なのにレモンが転がらずに異彩を放ちながら本の上に固定され、微動だにしなくなった。おまけに5冊の本がくっ付いて棚に張り付いてしまった。つまり誰にも動かせなくなったのだ。  だからあたしは時限爆弾セット完了!と歓喜して、その場を急いで離れた。エレベーターに乗り込むと、無人のエレベーターだけがあたしに味方しているような気がした。そうして1階に降りて東館から出てマーサ21を余裕綽々で後にした。
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