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  売る  ゆい子 私はお母さんに虐待されている。虐待歴一年半。  現在小学四年生、のはずだけど、私の机、教室にあるのかな。三年生のときは半分くらい出席していたけど、四年生に上がってからは一度も学校に行っていない。理由は・・・・よくわからない。力が出ないから?なんの力だろう。気力のことか、体力のことか。たぶん、両方。  お母さんが私を殴ったり蹴ったり、暴言を浴びせたり、何日もなにも食べさせないようにしたりするようになったのは、お父さんに恋人ができて、家を出ていってからだ。  お母さんは寂しくて、寂しすぎて、心が壊れた。それだけは子供の私でもわかる。美人で、笑うとかわいくて、優しくて、明るくて、いつも周りの人達から注目された自慢のお母さんはもういない。  お母さんは週五日、スーパーでパートをしている。お父さんから送られてくる養育費がとても少ないからだと言っていた。  夕方六時。  もうすぐお母さんが帰ってくる。  私は夕飯の支度がちゃんとできているか最終チェックをする。緊張で胃がキリキリ痛む。  ごはん、炊けてる。お味噌汁、できてる。お母さんが昨日買ってきたお惣菜、温めた。お箸、並べた。お茶・・・・。電気ポットに視線を移した瞬間、息を飲んだ。お水は入っているが、コンセントが入っていない。  忘れた? 「ただいま」  カチャリ、とダイニングのドアが開く音がして、体がビクッと震える。玄関が開く音に気づかなかった。そんな余裕もないくらい、焦っている。 「お、おかえりなさい。私のために働いてくれて、ありがとうございます」  毎日感謝の言葉を述べる決まりになっている。 「あー、寒かった。疲れた。夕飯にして」 「はい。あ、あの、お茶、沸かすからちょっとだけ待って」 「はあ?」  お母さんの声色が変わった。ダメだ、始まる。 「美代、あんた、十歳にもなって、電気ポットでお湯も沸かせないの?」  バシッと力任せに頭を殴られた。頭と首が痛い。今度はお腹を蹴られた。その勢いで床にひっくり返った。すぐに丸くなって防御の姿勢を取る。背中、足、腕を何度も何度も蹴られる。私は終わるのをじっと耐えて待つ。 「夕飯できたら呼びにきなさい」  気が済むとお母さんは和室に引き上げる。  私は頭と顔と内臓を守るのがうまくなった。  ゆっくり立ち上がり、やかんでお湯を沸かす。  いたたた・・・・。  体のあちこちが痛い。  先月から変な方向に曲がったままの右膝は、少しずつ痛みが消えてきた。きっと骨折して、違う形に固まってしまったのだろう。  お茶を淹れて、お母さんを呼びに行く。和室の襖を開けると、お母さんはたいていスマートフォンに入っているお父さんの写真を眺めている。涙が頬に何本か筋を作っている。  十月の初め。  お母さんはデコレーションケーキを買ってきた。かなり大きめ。 「今日はお父さんの誕生日だから」  お母さんの笑顔が一瞬少女に見えた。  お母さんは缶ビールを飲みながら、デコレーションケーキを切らずに直接フォークを入れて、食べ始めた。  ビールとケーキって合うのかな?  お母さんは一心不乱にケーキをバクバク口に入れた。その姿が異様で怖い。何かに取り憑かれている。 「お母さん?お茶、淹れようか?」  ケーキを切ろうか、とは言わなかった。ナイフを出すことが怖いからだ。お母さんはいつ私を刺すかわからない。 「いいの、いいの。お父さんは今頃、女とイチャイチャ楽しんでるの。だからお母さんも楽しむの」  お母さんは缶ビールを何本も空けた。泣きながらケーキを食べ、ビールを飲み、ケーキを半分ほど食べると、トイレで吐いた。  夜中までお父さんの名前を叫んでいた。  お母さんの涙を見るたび、私は虐待されながらこの家で生きている意味を知る。私の存在価値を感じる。お母さんは私を虐待することでかろうじてバランスを取っている。私は必要とされている。  平日、午後三時。  庭に出て洗濯物を取り込む。リビングでたたんで、それぞれの場所に片付ける。  バスタオルにトンボがとまっている。これでは物干し竿からバスタオルを外せない。私はしばらくぼんやりトンボを眺めていた。  昔のお母さんと一緒にこのトンボを見たい。そしたらお母さんはなんて言うだろう。トンボに名前をつけよう、と楽しそうに言うだろうか。指に乗せたい、と息を潜めてトンボに近づくだろうか。  私、お母さんが大好きだったな。子供みたいに無邪気に笑うところも、お姫様みたいにきれいなところも。毎日「美代ちゃん大好きっ」と言ってギュッと抱きしめてくれたところも。  トンボが飛んでいくのを確認して、バスタオルを取り込んだ。 「ねえ、なんで学校に行かないの?」  女性の声が聞こえて、キョロキョロと声の出処を探していると、庭を挟んだ隣の家の小さい窓から、つり上がった目のお姉さんが私を見ていた。  猫だ。  猫の目のようにつり上がっていて、大きくて、ギラギラしている。挑戦的で、隙がなくて、私を値踏みしている目。 「毎日この時間に洗濯物取り込んでるよね?午前中は三時間くらいかけて掃除してる」  そっと覗いていたのか。隣だから見えてしまうことはあるかもしれないが、毎日観察していたなんて。気持ち悪い。  私が黙っていると、お姉さんは核心を突いてきた。 「あんた、虐待されてない?」  私はお姉さんを睨んだ。  隙を見せちゃいけない。あの目に吸い込まれちゃいけない。 「体が・・・・体が弱いから、あんまり学校に行けないだけ」  とっさの言い訳が口を突いて出た。お母さんが学校に電話して、私を欠席させている言い訳。 「ふうん。体が弱いっていうより、体のあちこちが痛いんじゃない?いっつも動きがおかしいもんね」  お姉さんはいじわるそうに、ニヤニヤ笑った。でもネコ目だけは笑わない。ギラッと光って私の心の奥を覗こうとしている。 「本当に体が弱いだけ」 「ふうん。まあいいけど」  私はネコ目から逃れたくて、急いで洗濯物を取り込んだ。  家の中に入ろうとすると、お姉さんが私の背中に向かって、言った。 「あんた、自分の母親を警察に売れる?」  は?  私は思わず反応してしまった。  お母さんを、警察に、売る?  四年生の私でも意味はわかる。警察に通報するということだ。でもそんなことをしたら、お母さんは犯罪者になってしまう。私だってわかってる。お母さんが私にしていることは犯罪だって。だけど今まで通報なんてできなかった。誰にも助けを求められなかった。そんな勇気は私にはない。 お母さんがお父さんの写真を見て泣いている姿を何度も目にしてきたから。「会いたいな」と呟いていたから。  私は小さく首を横に振った。するとお姉さんはつまらなそうな顔をして、小さい窓をピシャッと閉めた。  数日後、お母さんは今までにないほど荒れていた。  今までは私に暴力を振るうとき、服で隠せる部分しか狙わなかったのに、この日は私の顔にマグカップを投げつけたり、私の頭を壁にぶつけたりした。フラフラになった私に 「大げさなんだよ!」 と怒鳴り散らした。 「なんで?なんで、養育費、送ってこないのよ!」  テーブルを両手でバンバン叩いて、お母さんは怒っている。  私は視界が歪んで廊下に座り込んだ。お母さんは怒りのやり場がほかになかったのだろう、私の顎を蹴りあげた。  痛い、なんて感覚はもうなかった。口の中からぬるっとした液体が沢山溢れた。右手で口のまわりを触ると、手が真っ赤になった。  死ぬかもしれないな、私。がんばって生きてもずっと苦しいだけなら、死んでもいいかな。  そのときだった。  ピンポーン、ピンポーン。  チャイムが鳴った。  一瞬、あのネコ目が頭に浮かんだ。  チャイムが鳴っても絶対出るな、とお母さんから強く言われている。それは虐待がバレないためだ。 ネコ目のお姉さんのつまらなそうな顔を思い出して、悔しくなった。  神様、お願いします!私に勇気をください!お母さんを警察に売る勇気を!大好きだったお母さんを犯罪者にする勇気を!  玄関の重い扉を押し開けると、外に立っていたのは見ず知らずのおじさんだった。 「〇〇交番の・・・・えーっ!」  私の血を吐いたボロボロの姿に驚愕したおじさんは、震える声で救急車を呼んだ。  まさか私が玄関を開けるとは思っていなかったお母さんは、玄関で倒れている私と警察の制服を着た男性を見つけて、ギャーッと叫び声をあげたきり、廊下に座り込んだ。  顔を両手で覆って座り込んでいるお母さんの姿が、私が最後に見たお母さんの姿になった。  意識が戻ったら、病院のベッドの上だった。  看護師さんから一週間も眠っていたと聞かされ、驚いた。  頭、口腔内、肋骨、右膝の手術を行ったそうだ。  一週間ほど経って、柔らかいものを食べたり、普通に喋ったりできるようになった頃、ネコ目のお姉さんがお見舞いに来てくれた。  相変わらず心を開けない、威圧感のある目で私を見つめる。 「警察の人が来たの、お姉さんのせいでしょ」 「せいってなによ。虐待の通報は義務だもの」  私が言い返せずに唇を尖らせると、お姉さんは笑った。初めて柔らかい笑顔を見た。 「でもあんた自身の意思で動けたね。がんばったよ」  瞬殺・・・・。  一瞬で涙がぶわっと溢れた。しばらく止まらないだろう。 誰かに褒められたの、久しぶりだ。私、がんばったんだ。お母さんに負い目を感じていたけど、違う。私、正しかったんだ。  お姉さんは機械のように同じ動作で、何枚もティッシュを渡してくれた。 「肋骨、痛い・・・・」 「はいはい」  しゃくりあげるたびに、ひびが入っていて治療中の肋骨の辺りがズキズキした。 「そろそろ帰るよ」  お姉さんが立ち上がったとき 「美代?」 とカーテンの向こうで男性の声がして、人影がカーテンに映った。  私は咄嗟にお姉さんの手をつかんだ。それだけでお姉さんは察してくれて、声には出さずに「大丈夫」と唇を動かした。  カーテンをそっと開けて入ってきたのはお父さんだった。一年半以上ぶりに見たお父さんは、ちょっと老けていた。疲れたような肌のたるみと、増えた白髪のせいだろうか。  私だけがいると思ったら、大人の女性がいるものだから、お父さんは驚いたが、小さく会釈して、私に視線を移した。「誰?」と聞いているのだ。 「虐待を通報してくれた人」 と私が紹介すると、お父さんは慌てて深々とお辞儀をした。 「ありがとうございました。私は離婚して一緒に暮らしていないものですから、知らなくて・・・・」  お父さんの言い訳は、なぜだか私をイライラさせた。  もともとお父さんのせいじゃないの?お父さんに好きな人ができてしまったことは仕方ない。ちゃんと離婚してからそっちの人と一緒になったんだから、けじめはつけてる。でもお母さんの気持ちのフォローとか、養育費とか、私との面会日を決めるとか、そういうこと全部投げ出していたよね。四年生の私でもわかること、お父さんはやらないで逃げたよね。  許せない、かもしれない。  私の心に芽生えた感情を、私はコントロールできるほど大人ではなかった。  だから私は言った。 「私、お母さんを警察に売ったの。お父さんはどこに売ればいい?」 「美代、なに言って・・・・」  うろたえているお父さんをニヤニヤして見ていたお姉さんが言った、それはそれは楽しそうに。 「ネットじゃない?」  お父さんは真っ青になった。  お姉さんのネコ目がギラッと光った。  私はきっと今、同じ目をしている。
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