1章

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1章

 実結(みゆ)の初出勤の日の朝になっても、律子の心配症はとどまるところを知らなかった。 「あぁ、今度こそは上手くいくといいわね。おじい様のご紹介だもの。きっと素敵な病院よ。皆さんも良くしてくださるわ。薬局なんかよりは、病院の方がよほど勉強になるでしょうし……そうね。むしろあなたにとっては良かったのかもしれないわね」  お洒落なアンティーク家具で飾られた立花家の食卓と台所をせわしなく往復しながら、母は繰り言のように呟き続けている。しかしその言葉は娘に対してではなく彼女が自身に言い聞かせるためのものだと知っているから、実結は相槌を打たない。  それに今の実結は朝ごはんを食べるだけで必死なのだ。  脂身の多いベーコンを口の中へ詰め込みながら、実結は自身の朝食プレートへうんざりとした目を向けた。  今日から初出勤なのだから精をつけないと、といつにもまして母が気合を入れて作ってくれたベーコンエッグとコーンポタージュスープとスモークサーモンのサラダは、そのどれもがまだ皿に半分以上残っている。食パンは今流行りの食パン専門店で買ってきた最上級品なのを実結も知っているが、いまだに四角い形をきっちり保っているし。  体の小ささに比例して食が細い実結にとって、朝からこのボリュームは拷問でしかない。見るだけで胸焼けしてしまいそう。  でもこれを食べなければ、母が心配する。  そんなことだからあなたは大きな声が出ないのよ、ともう何十万回と聞かされたフレーズが涙交じりに繰り返されるのだ。  あれを言われたくなかったら、おとなしく食べるしかない。  実結は髪の毛を団子に結び直した。日本人にしては色素の薄い、光の加減によっては鳶色に輝く長い髪は、食事の時には邪魔でしかない。  樫の木の一枚板で作られた重厚なダイニングテーブルの上には果物籠があり、律子はその中からキウイフルーツを取り上げた。  どうやらデザートに剥いてくれる気らしいが、それは本当に無理。想像しただけで吐いてしまいそう。 「お母様、あの……」 「あぁ、実結ちゃん。お願いだから、お爺様の顔を潰さないように。今度こそ頑張って働くのよ」  台所に立つ母に顔を向けた時、律子は縋るような目をして懇願してきたから実結は自分の言いたいことを口にすることができなかった。  母の言葉は、今までの実結が頑張っていなかったと言っているのと同じことだ。    ……やっぱりそういうことになっちゃうんだよね。  律子にとっての認識がそうであることは分かっていたけれど、改めて言われるとやはり凹む。  今日から新しい職場へ出勤しようという気力が―――まぁそれすら、元々か細い糸のようなものであったが―――ぷつんと切れるのを感じる。  ダイニングにある大きな出窓から差し込む陽光は、5月半ばらしい爽やかなものだったが、この時の実結の心は真冬のように冷めきっていた。  ……私は多分、どこへ行ってもダメなんだけど。  今日から始まる新生活に向けて絶望的な気分にさいなまれながら、実結は濃厚過ぎる自家製コーンスープで食パンの耳を無理やりに飲みこんだのだった。
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