プロローグ

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プロローグ

湖上に浮かぶ大きな大きな城がある。 ここにはこの世で一番、不幸な領主が住んでいる。 従者は一様にみな、領主の命令をきき、逆らう者は誰ひとりとしていない。 全てが思い通りに運ぶのだという。 それは人が望むべく、楽園なのではないのか? 否。 領主はそんな自分を、不幸な人間なのだと、信じて疑わない。 従者が領主の命令に従い思い通りに動くのには、秘密がある。この不幸な領主が従者ひとりひとりの「名前」を、その手の中に握り、離さないからだ。 そんな中、みすぼらしい少女が城へとやってくる。 驚いたことに、彼女は自分の名前を持っていなかった。このリンデンバウムの城において、領主の命令が届かない、唯一の人間ということになる。 領主は驚きながらも、この少女に仮の名前を授けた。 「ムイ」 東方の国の言葉で「無為」と書き、「人の手を加えない」という意味がある。 ✳︎✳︎✳︎ (名前を知られちゃいけない、絶対に知られてはいけない) 元々、声は出ないのだから、その真の名前を発することはできない。 そして、文字も書けないのだから、自らうっかり知らせてしまうような失敗もしないだろう。 (きっと大丈夫……) この恐ろしい領主に名を握られることは、一生ないはずなのだ。 (だから、大丈夫。絶対に知られることはないから) けれど、そうであったのなら、この恐ろしさはどこからくるのだろうか? 名前を握られたら最後。 この城からも領主様からも逃げられなくなる。 震える細い肩、薄く骨ばった背中は丸く、先ほどからずっとゆらゆらと揺れている。その揺らぎとともに、短くぼさぼさである黒髪も、小刻みに揺れた。 目の前にいるのは、人を呪術かなにかで監禁するのだというような、不穏な噂しか立たない、恐ろしい領主。 彼女は恐怖のあまり、領主を見ることができず、ずっと大理石の床を見つめていた。 (名前を守るんだ、今までも自分で自分を守ってきたように……) 心の中で、そう繰り返しながら。見つめ続けた。
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