秘密

13/14
前へ
/14ページ
次へ
傘から滑り落ちた水滴が視界をかすめた。 灰色の雲で覆われていた空は所々隙間ができて光が零れはじめている。 空を見る余裕ができて、ようやく雨が止んでいたことに気がつき傘を閉じる。 暗くうるさかった雨は濡れた地面で静かに輝いていた。 彼女が思いとどまったことにホッと胸を撫で下ろし、喉元から沸き上がるようなため息をついた。緊張していた体から力が抜けてその場に座り込んでしまいたくなる。 彼女を見ると、なにか言いたそうにこっちを見ていた。 その表情は笹田をはっとさせた。 自分の発言を思いだし、思わず彼女から顔を背ける。何を言ってるんだ俺は、と頭を混乱させた。 映った記憶は自分が今までにしてこなかったことをしている自分だった。つまり違和感がある。 「幸せを教える」と言った自分が繰返し頭の中で反唱していた。 幸せを教える? おれが? 無理だ。 キザすぎないか? 恥ずかしい。頭の中で様々な感情が飛び交う。 よくよく思い返すと、言った瞬間、もう一人の自分が、そんな事を言える立場にないだろと即座に反論したような気もする。 その反論に異議はない。むしろ大賛成だ。 事件を起こして会社をクビになり、母を泣かせた自分が教えられることなんてない。と笹田自身も思っている。 理由はわからないが、彼女を見てそう言わずにはいられなかった。 そうしなければ、凄惨なことになっていたかもしれない。思い付く限りの理由を頭に浮かべる。 結局、あの状況では仕方がなかったと、言い訳のようなものを自分に言い聞かせる。彼女はどう思っているのだろうか? そんな疑問を残して、再び彼女の方に顔を向けるが、恥ずかしさのあまり彼女の顔を直視できない。 挙動不審を体現しながら、彼女に納得してもらう方法を探した。 彼女はそんなことおかまいなしといった様子で、ゆっくりと笹田の目の前までくる。 近い。服が濡れて少し透けている。視線のやり場を探すようにキョロキョロしていると「ねぇ、さっきの言葉本当?」と彼女は鋭い視線をぶつけた。おもわず、後退りしそうになるほどその目は真剣だった。 大人の威厳を出してさっきの発言をうやむやにできないものかと考えたが、それを許してくれるとも思えない雰囲気だった。 「ねぇ、本当? 聞いてるんだけど…… 」 考えて黙りこんだ笹田を強引に引き戻すように、彼女は問いかける。まるで逃がさないといわんばかりだ。 「えっ、いや…… うん」とたどたどしく反応する。 「おじさんのこと信じていいの?」 できることなら「ごめんなさい」と謝ってこの場を離れたい。 「ま、まぁ。できる範囲でなら……」 そんな勇気はなかった。 彼女は下を向いて考える素振りを見せたあと、再び視線を合わせた。「ふーん、そっか。じゃ頑張ってね」と意味深に告げたあと「嘘だったら、通報して人生台無しにしてあげようと思ってたのに」と冗談ぽく付け加えて笑顔を見せている。 「そっ、そっか……」 冗談になっていない。笹田は顔を引きつらせながら心の底からそう思った。 なんとか笑顔を作る。作っている自分でさえ違和感があるほどだ。さぞ不気味な笑顔だろう。 あっ、といって彼女は突然思いたったように携帯を取りだし、誰かに電話をかけはじめる。 話しながら笹田の顔に何度か視線を送っていた。明らかに不自然だ、と笹田は怪しむ。 笹田は誰かに迎えに来てもらうのではと期待を滲ませたが、すぐに違うとわかった。 「うん、今日は帰らない。うん、友達の家に泊まろうと思って」 まさか、と笹田は顔を強張らせる。 電話を切り終えた彼女に恐る恐る確認をとる。 「今の電話ってお母さん?」 「そうだよ」と明るく答える。 「ちょっと聞こえたんだけど、これから友達の家に行くのか?」 「友達っていうか、おじさんの家」 嫌な予感は的中した。体が固まる。 「えっ……」 「元々今日は帰らない予定だったし。おじさんが邪魔したんだから、責任とってよ」 なんの責任? と思わず聞き返そうかと思ったが、ここで取り乱してはいけないと冷静を装う。 「いや、それは色々だめだろ」 「なんで?」 「なんでって、犯罪だから」 「だからなに? てかなにする気してんの?」 「いや、そんな気は毛頭ないが、俺が君のような女子高生を泊めたら世間が黙ってないだろ?」 「別にだれも気にしないよ。そんなこと。じゃあ、幸せにするって嘘だったの?」 彼女の表情が変わった。声なトーンも低くなっている。悲しげにもみえる。 笹田はようやく決心を固める。 「はぁー、わかったよ」両手を上げて観念したように呟いた。 「嘘じゃない、本当だよ」そういって彼女に笑顔を向ける。今度は違和感は感じなかった。 「だと思った」と言って彼女は悪戯な笑顔を浮かべた。 その笑顔を見ると最初にあった時の暗かった彼女の印象が薄れていった。 普通のどこにでもいる女子高生だ。 この子はまだ笑える、救える。と笹田は希望のようなものを感じた。 彼女は問いかける。 「でさ、どうやって私を幸せにしてくれるの?」 「どうやてったって、それは、まだ決めてないけど……。美味しいものでも食べにいく?」 「なにそれ?」と彼女は再び笑った。 「おじさん、変な事考えてない?食べ物で女子を釣ろうなんて甘いよ」 「いや、そんなつもりは断じてない。腹へったろ? 純粋な気持ちからだ。美味しい物を食べれば気分も上がるだろ? それともどこか行きたい場所でもあるのか?」 うーん、と彼女はどこか考えている。笹田の心は、お金をできるだけ使わない場所限定と言いたそうにしていた。 「うーん、私、海に行きたいな」 「え? 海鮮?」 「いや、違うし。食べ物はどうだっていいよ。海を見たいだけ」 「こんな寒い日に?」 「別に入るわけじゃないよ。見たいだけだから。 昔お父さんに連れていってもらった事があるらしいんだけど、私すごく小さかったからあんまり覚えてないんだ」 「そうか、海か……」携帯を取りだして、場所を確認する。 「調べなくていいよ、場所は知ってるの。お父さんから前に聞いたんだ」 「そうか……。これからいくのか?」 「うん!行こっ」と彼女は明るく笑う。 この子といる所を他の人が見たらなんて思うのだろう。親子は通らないにしても、兄妹で通る年齢差なのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えながら、彼女と海に向かった。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加