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会社からの帰り道、ビルとビルの間を吹き抜ける生ぬるい夜風は残暑の灯火を感じさせた。
額にじわりと滲む汗を、買ったばかりのハンカチで拭き取り、鞄から密かに隠し持っている香水を脈から脈へとふりかける。
並木通りを程なく歩くと、高級クラブが連なり、赤本のお気に入りのクラブがそこにあった。
「あら、赤本さん。いらっしゃい」
絹の細やかな上質そうな着物をきたクラブのママが赤本を出迎える。
不動産で英華を極めた時代の名残が貯蓄としてまだ残っている。だが、そろそろやめなければと赤本はママの笑顔を作り顔で受け止めながら思っていた。
「夏蓮さん、空いてる?」
「はいはい、どうせ私には興味ないんでしょ?」
悪戯な笑みを浮かべて、ママの返答は赤本の心をくすぐる。こういう言葉に男は弱いのだろうと赤本はママに感心しながらも申し訳なさそうに振る舞った。
「ごめんねママ、今度は指名するから」と社交辞令も忘れなかった。
ママの肩越しに、夏蓮と目が合う。接客中のようだった。赤本は少し照れながら小さい振り幅で手を横にふった。
「夏蓮さん、もうすぐあくと思うから、赤本さん座って待ってて。もちろん、夏蓮さんがついてからスタートにするわ」
「いいよママ、俺には誰もつけなくていいけど、時間はスタートさせてよ。今日は夏蓮に言わないできたから、こうなることは予想してたんだ」
「本当、赤本さんってカッコいいわよね。夏蓮さんに飽きたら直ぐに連絡してよね。
お言葉に甘えて時間スタートにしておきますね」
席についてからしばらくして、夏蓮はお客さんを見送り、足早に赤本の隣に腰をかけた。
「赤本さん! メールくれたら、空けといたのに!」
「ごめん、ごめん。俺も今日は気まぐれできたんだ。急に夏蓮の顔が見たくなって」
「またまた、そんなこといって、どうせ今日まで忘れてたんでしょ」
夏蓮はホステス特有の返しを赤本に対し惜しげもなくつかった。それは、夏蓮にとって赤本を信頼している証でもあった。
最近では、ホステスとして、ありきたりな返しを言うと、変に警戒する客も多いらしく、それが、とてつもなく大変だと、夏蓮は以前に赤本に語っている。
赤本もそれはわかっていた。だが、だからというわけではなく、赤本は純粋に夏蓮を気づかってのことだった。
いつものように、何事もなく終わると思っていた刹那に夏蓮は赤本にメールを送った。
赤本の携帯が振動する。
「どうしたんだ? 隣にいるんだから直接いえばいいじゃないか」
「直接言えないからメールしたんですー」
と感の鈍い赤本をもどかしそうに見ていた。
メールを開くと、ある住所が記載されていた。
「これは?」と内心胸が高鳴りながらも平然を装って聞いた。
「私の家だから、後できてね」と赤本の膝の上に手を添えながら夏蓮は艶っぽい唇を動かした。まるでその動きが催眠術だったかのように赤本の目は夏蓮から離れなくなっていた。
お店から出ると、ほどよく酔いが回っていた。ぼやけた視界に映る膨張した光は街を優雅にみせた。それが、酒のせいなのか、これから先を想像しての浮わついた心のせいなのかは赤本には確認のしようがなかった。
少しふらついた足取りを矯正しながら、夏蓮のメールを開き、マンションへと向かった。
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