6人が本棚に入れています
本棚に追加
すぐに止んだ夕雨が作りだした窓の雫は、曇の間から贈られた日の光を通して輝きを増していた。
本来であれば、空の模様に左右されるほど、私は繊細な人間ではない。だが、これからしなければならない事を考えると、心は深く曇り、光の指す隙間などあくはずもなかった。
携帯を手にとり、美知子の連絡先を表示すると、羅列された数字は以前に見たときよりも無機質で冷たく、まるで私を睨んでいるようだった。それは、ひどく遠退いている美知子との関係を嫌みに暗示していて、指を固まらせた。淀んだ秘密を抱え、再び縮めようとする行為は、すでに色褪せている想いを無理やり黒く塗りつぶすような感覚だった。
ぐだぐだと悩んだ末、私は鼓動を早くしながら、繋がるかわからない番号に電話かける。何度か呼び出し音がなり胸を締め付ける声が聴こえた。
「……伸吾さん?」
私は久しぶりに聞いたその声に覚悟を掻き乱されそうになった。
「久しぶりだね……」
「う、うん。ビックリしちゃった。どうしたの?」
「いや、さっき部屋を片付けていたら昔君と撮った写真がでてきてね。それで思い出してかけてみたんだ。迷惑だったかな?」
とっさについた嘘は思いの外、口を滑らかに動かした。
「そんなことないわ。少し驚いただけ……」
「それならよかった。君は今……その」
私がいいあぐねていると、美知子は私の言葉の先を察したように「相変わらず一人よ。このまま一生独身かしらね」といって儚げな余韻をのこした。
「君はまだ若いんだし、まだまだこれからだろう。俺なんてもうすぐ40になるんだぜ」
「男の人の40なんて、一番いいときじゃない」とお互い励ますように会話を重ねた。
たわいのない雑談や昔話を挟みながら、豊かな時間を過ごした。
「会わないか?」私がそう口にしたのは、電話をはじめてから1時間程たってからだった。
「え?」という戸惑いの色を電話越しから漏らし、少し間をあけてから「ええ、いいわよ」と答えた。吐息混じり声が耳に優しく充満していった。
「明日でもいいかな?」という急な要求にたいしても心よく受け入れてくた。
私は時間と場所を伝え、「じゃあ、明日」と言って少し慌てて電話を切った。
そうしなければまずいと思ったからだった。
色褪せたはずの感情が美知子との電話で再び色づこうとしているのを止めるように、私は嬉しさの滲む感情を押さえつけた。
休日の街は、日差しの多い昼間ということもあり、待ち合わせ場所への道中は人混みで溢れていた。
険しい表情のサラリーマンが多い平日とは違い、対照的な柔らかい表情をした家族連れや若い男女が街を賑わせていた。私もその一部になのだろうかと考えると、夜に出歩くことの多かった昔を思い浮かべ不思議な気持ちになる。
見た目はともかく私の心は、若さを取り戻すように躍動していた。それは美知子との8年ぶりの再会に備えてのことだった。
抗えない気分の高揚を感じながら、軽快に足を弾ませ、踏みしめる地面の感覚がないほどに浮き足だっていた。そんな無意識に早まっている足取りを抑えつけるかのように、私をのみこんだ人の流れは一定の早さを保ち進んでいった。
自分のペースで歩きたくても密集した人の壁がそれをさせてくれなかった。
一見、通れないように感じるこの流れも、人と人の歩幅の違いが僅かに隙間を生んで、群れのなかで蛇のように紆曲(うきょく)した道を作っていた。その道を抜けて一刻も早く彼女のもとへたどり着きたいと足を疼かせたが、結局私は思いとどまり、流れに身を委ねることにした。
なんとか待ち合わせ場所にたどり着き、慌てて左手の時計を確認するが、まだ予定の時刻より30分も前だった。
私は思わず浮かれている自分が恥ずかしくなり、これではいけないと思いながら、待ち合わせ場所に指定した思い入れのある喫茶店のドアを開けた。
私は入ってすぐの窓際の席を選んだ。その席からは、出入口がよく見えるが、入ってきた人からは見えづらい場所になっているのが理由だった。つまり、先に彼女を見つけたがっていた。
道中は浮かれていたが、店に入った途端に緊張が増していて、先に彼女に見られて声をかけられるのを恐れている自分が情けなかった。
席に座って直ぐにコーヒーを頼んだ。
待ち合わせ場所を喫茶店に選んだのは正解だったのかもしれない。心を落ち着かせる空間とコーヒーの苦味が僅かに緊張を緩和してくれる。
ドアの開く音がなる度に私は過剰に反応した。8年もすれば美知子の容姿は変わっているだろう。だが、そんなことなど忘れ、当時の面影を知らない誰かに重ねては見間違っていた。
美知子の姿は見えなかった。もしかすると、私と会うのが嫌になったのかもしれない。
2杯目のコーヒーを頼み、そわそわと時間を溶かした。結局予定の時間になっても美知子は現れなかった。
予定の時間を5分程過ぎて、私が電話をかけると、私の後ろの方で女性が電話でたのがわかった。私は後ろを振り向かず、鼓動を強く鳴らしながら携帯に話しかけた。
「つ、ついた?」
緊張が声から出ていたのだろう。美知子にもそれが伝染したようだった。僅かな震えを帯びて美知子は答えた。
「う、うん。も、もういるよ。伸吾さんは今どこにいるの?」
「実は30分前から喫茶店にいて、偶然だけど、さっき君のいる場所も見つけてるんだ」
「えっ?」
「ご、ごめん。君の場所を知ったのは本当に
偶然なんだ。でも、なんでだろうな。さっきまでは大丈夫だと思ったのに、急に君に会うのが少し怖いんだ。いや、君の知らない俺を君に見せることが…… かな。まさかここまで自分が意気地無しとはね」
そういうと、美知子は緊張が解けたようにフフっと笑った。
「ねぇ、覚えてる?」
「ん?」
「この喫茶店って私たちが付き合って初めてきた場所なの」
「覚えてるさ。だからここにしたんだ」
「その時もあなたは私を先に見つけてるのに、なかなか話しかけてこないで、私が話しかけに言ったら凄く固まってたのよ」
「そっそうだったかな……」
「実は私も今の話しを聞くまで会うのが少し怖かったの」
「そ、そうか。そうだよな。8年ぶりにいきなり会おうだもんな」
「ううん、そうじゃないの。誘ってくれたのは凄く嬉しかった。
理由は伸吾さんと同じで、私も昔の私じゃなくなってるって自覚はあるの。そんな私をみて嫌われたらどうしようとか、もしかすると伸吾さんも私の知らない伸吾さんになってるんじゃないかって。でも伸吾さんは伸吾さんのままだった」
美知子は嬉しそうな声でそういった。それに対し私は言葉が出なかった。汚れた自分を優しく包むような美知子の声は目を滲ませて胸を苦しくさせた。
コーヒーに映った私の顔は醜く歪んでいて、まるで鏡のようだった。
「あ、あのさ……」
全て言おう。夏蓮のこともあの秘密のことも。この女性は不幸になるべきじゃない。そう思って顔をあげると、「伸吾さん。久し振り」と言って恥ずかしそうに笑っている彼女が苦しくも綺麗だった。
最初のコメントを投稿しよう!