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病室の窓から頼りなく開いている桜の葉を見ると、僅かな皺を深めて地面を見つめていた。
赤本伸吾にとって、葉脈を萎(しお)れさせているその姿は、今の自分を投影しているかのように思わせ、自分で散れない虚しさを重ねていた。
ペンを握り、ノートを破った紙にインクを滑らせ、線と線の幅を意識しながら、丁寧に文字を並べていた。
これが最後の手紙になると、赤本は思っていた。ペンを持った手にできる寂しげな空洞は、滴りそうなほど汗ばんでいた。
簡素な病室で、自分の心音が日に日に弱々しく胸を叩き、嫌味ったらしく響く心電図の高音は誰にも届かずこの病室の中だけで消えていった。
最初の文言を書き終えてから、赤本の手は嘘みたく勢いをなくした。
これは遺書になるであろうと覚悟をきめて、自分の想いをありったけ綴ろうとしたが、言葉が浮かばない。A4の紙に広く空いた空白が妻への想いの空虚さを現しているようだった。
良き夫婦を演じ、妻にとって最良の夫であること。それが、秘密のある赤本にとって、償いであり、使命でもあった。だが、命の終わり際になり、果たして最後になってまで良き夫を演じることに意味はあるのかと疑問を感じはじめていた。
妻にとって完璧な夫でおわる。それは完璧主義者の赤本にとって本意ではある。だが、妻をずっと騙しながら生活してきた完璧とは程遠い自分の存在を終わる時まで隠し通せば、この結婚生活どころか人生の全てが偽りになってしまうのではないかと今更になって迷いを巡らせていた。
赤本は書いていた紙を丸め、ノートを破って新しい紙を前に置いた。
明日をも知れぬ今だからこそ、本当の自分を綴るべきなのではなかろうかと、赤本は弱々しくペンを握る。
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拝啓、美知子様
この手紙を書いている私は、あなたの知っている私とはかけ離れた存在の醜く汚れた本当の私です。
私にはずっとあなたに言えない事がありました。それは、あなたと結婚した10年前の事です………
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きらびやかな街とは不釣り合いな年期の入ったホテルの一室で、私と彼女は限りある時を堪能した。
昨晩の刹那を散らばらせるような儚げな吐息は、愛おしく、僕を狂わせた。
ぎこちなく震えるかすれた唇を重ね、律動を感じる肌の温もりに溺れた。彼女の不安げで濃厚な表情が、僕を惑わせ、視界を通して体を乗っ取り、欲情を高ぶらせる。
若ぶいた体を煙のように燻らせ、すぐに消えてしまいそうな危うさを彼女は演じた。
瞬きをこれほどまでに愁いたこともなく、薄紅がかった彼女の体を見ると、自分の瞼を切り取りたくなるほどに、美しかった。
薄目を開けると、カーテン隙間から群青の光が差し込んでいるのが見えた。顎の下に視線を送ると、憎らしいほど美しい彼女の黒髪が胸に垂れていた。
どうやら、少し寝ていたらしかった。至福を肥やして寝た醜さを彼女に見られたと思うと、恥ずかしさからこの現実さえも一夜の夢であってほしいと願うのだった。
私がぼんやりと、なにかわからないものに怯えていると「ねぇ……今なに考えてるの?」と彼女は聞いた。
別に大したことじゃないという素振りをして、彼女を感じながら天井を見上げた。
「今凄く幸せだけど、本当にこのままでいいのかなって」
「それ、私を抱いた今考えること?」
彼女は少し不服そうにそう聞いたあと、白樺の枝のように白く細い指を僕の耳裏になぞらせる。
「今が幸せならいいじゃない。これって、何も考えてないように思われるかもしれないけど、それでいいのよ。
人間は考えすぎだと思う」
「君は不安にはならないの?」
「あなたとの関係?」
「それもあるけど、これからのこと全部さ」
「ならないわ、あなたが美知子さんと結婚した時から私に将来の居場所なんてないもの」
「そんな意地悪言うなよ。こっちにだって色々都合ってもんが……」
話を遮るように彼女は僕の口に指を当てた。
「わかってる。だからお互いに納得して今こうして二人一緒にいるんじゃない。
もう考えるのはやめましょ」
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