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プロローグ
セックスは疲れる。
全身運動に伴う激しい動悸と射精。相手の身体を思うままに蹂躙し、得られる優越感など一瞬のものだ。あとに残るのは疲労感と脱力感だけ。
だったらなぜセックスをするのかと問われれば、生理的欲求には逆らえないのだとしか言い様がない。欲求を満たすためだけの身体の関係。情愛のない関係は楽だ。快楽のためだけの行為で重要なのは身体の相性のみ。
そういう意味では、この相手に申し分はない、と思う。
「ねえ、知ってる?」
ベッドに腰掛けていた和久谷駿輝は、さっきまで寝ていたはずの男から声をかけられ、視線を向けた。
すでにシャワーを浴び、身支度を整えている自分とは対照的に、彼は裸のままで柔らかい紅茶色の髪は汗で頬に張り付いている。激しい情事の名残を全身に纏ったまま、彼はほんのりと赤く染まった目で駿輝を見て笑った。
「女の人ってさ、八割ぐらいの人がセックスでイった演技をするんだって」
なんの話だと視線で問うと、甘ったるい熱を帯びた瞳がとろりと溶ける。
「馬鹿みたいだよね。演技してまでセックスってしたいもの? もっと楽しめばいいのに」
でも、八割以上の男が騙されてると思うと、それもバカだよね。そう続ける声は嫌味を含んだものではなく、甘くかすれている。
どこか満足気に聞こえる声で笑いながら身じろぐ白い肌に、自分がつけたであろう赤い痕を見つけてしまい、再燃仕掛けた欲情を舌打ちで追い払う。
「あんたの価値観であれこれ言うな。女抱いたこともないくせに」
「まーね。俺は抱かれる方が好きだし。でもさ」
彼は白い腕を駿輝の腰に絡め、裸の胸をぴったりとすりよせた。
「そう考えると男は単純だね。イったふりなんかじゃ誤魔化せないし。第一、男同士のセックスは生殖行為でもないから単に快楽のためだけでしょ? 演技なんか必要ないし、わかりやすくていいよね」
「あんたの頭の中ではセックスは娯楽かなんかになってるのか?」
半ば呆れた声で言っても、彼は「さぁね」と笑うだけで何を考えているかわからない。そもそも、駿輝も彼とは快楽のためのセックスしかしていないので、とやかく言うつもりはない。だが、情欲を煽るように柔肌を寄せ、乾いた肌を撫でる男の仕草には、文句の一つも言いたくなる。
日焼けのない白い肌と、すっきりとした顔立ち。紅茶色の髪と切れ長の瞳はどこか中性的だが、身体は程よく鍛えてあり、細身ではある決して華奢ではない。確実に美形の部類に入る容姿である事を彼はしっかり自覚している。それどころか、自分の身体の使い方を知っているからタチが悪い。
「石鹸のにおいがする」
「シャワー浴びたからな。あんたもさっさと行ってこい。腹下すぞ」
「それは駿輝のせいだろ? 遠慮なく中出ししてくれちゃってさ」
「アホか。生がいいっつたのはどこのどいつだ」
「あっは。俺だっけ?」
からからと笑いながら、白い手が駿輝の太ももを撫で、きわどい位置で行き来を繰り返す。甘く溶けた肌が駿輝の身体にくったりと張り付き、誘うように腰を揺らしながら彼は甘く笑った。
「ね。もっかいする?」
「はぁ?」
「俺、できるよ?」
そう言って、ゆらゆらと動いていた手が意図して駿輝に触れた。
甘く柔らかいものでできたような容姿をしていながら、彼は激しいセックスを好む。一度では満足せずもっとと強請られ、激しく痛くしてと請われる。その甘い誘惑に乗って行為は熱を上げ、そして結局、泥のような疲労感に沈むほど彼の身体を貪ってしまうのだ。
実際に彼の誘いに乗って明け方近くまで行為にふけってしまった日の事を思い出し、苦い記憶を払うように舌打ちをする。
「やんねえよ、バカが」
ベッドに転がった彼を蔑むように見下ろす。それなのに、彼は一度目を丸くしただけで「つれないなー」と愉しそうに笑った。
暖簾に腕押し、というのはこの男に似合いの表現だと思う。甘えたり、軽口を叩いたり、本気か冗談か分からないような言動が多い。こちらが冷たい態度であしらっても怒るようなことは一切ない。むしろ、ただやり取りを楽しんでいるように思える。
真面目に相手するだけ時間の無駄だとすでに知っている駿輝は、ポケットから取り出した煙草に火をつける。ベッドサイドの灰皿は駿輝専用だ。
煙草を吸わない彼の家に灰皿が置かれたのは約一年前のこと。それはつまり、駿輝と彼の関係がはじまってからすでに一年が経ったことを意味する。はじめて彼と言葉を交わしてから今まで、会った回数とセックスの回数がほぼイコールだという事実には、我ながら呆れるしかない。
煙草を咥えたまま、灰皿の隣に置いたシルバーアクセサリーを手に取った。ブレスレットと腕時計を身に着け、最後にネックレスを手に取ると、すっと伸びてきた白い手に奪い取られた。
「おい」
「そんな急いで帰ろうとしなくたっていいじゃん」
「もう用は済んだだろ」
「うーわ。やるだけやって帰るなんて、最低だと思いませんか?」
「文句があるなら他の相手を探せ」
必要以上に関わるつもりはない。そうはっきりと言い捨てると、彼は傷つくような顔をする事なく、からからと笑う。
「それは面倒だなー。駿輝ほど身体の相性がいい相手って、そうそう出会えない気がするし」
相性がいいと思っているのはお互い様なのだと、彼の言葉で知る。
互いに深く干渉せず、適度な距離を保ったままの関係。絵に書いたようなセックスフレンド。だからこそ、彼との関係が一年も続いているのだろう。
性欲を満たすためだけの相手。この関係を利害の一致だと言ったのは彼の方だった。
「気が済んだなら返せ」
「はいはい。へえ、面白いデザインだね」
一度返しかけた手を止め、彼はネックレスを間接照明に翳した。
「クローバーっぽいけど、なんか雰囲気違うな」
その言葉に奪い取ろうとした手を止める。ネックレスに対する感想への興味が勝った。
彼に詳しく話した事はないが駿輝はシルバーアクセサリーショップの店長として働いており、販売だけではなく、自らデザイン・制作も行っている。このネックレスのモチーフは、先日出来上がったばかりの試作品だ。
駿輝は彼のセンスを高く評価していた。きっかけは、この家のインテリア。
オリジナルブレンドだというルームフレグランスが香る室内は、基本的に物が少なく生活感をあまり感じない。たが、居心地が悪いという感じは一切なく、オフホワイトの壁紙に浮かぶ間接照明の影や、モノクロで統一された家具にはどこか柔らかさがあり、まるでリラクゼーションサロンにでも来たような不思議な感覚だった。はじめてこの家に訪れたときに随分と雰囲気のある家だと言うと、彼は「これでも空間デザイナーだからね」と笑った。
相手のプライベートに興味がなかったので、彼の仕事にも特に関心はなかったが、彼のセンスは確かだと認めている。
「クローバーではあるんだけど、花みたいな透かしもあって……、シロツメ草って言った方がしっくりくるかな」
彼の言葉に僅かに安堵する。
このモチーフは他店との差別化を図るため、ショップのオリジナル商品として展開しようと駿輝が試行錯誤中の物だ。
約束や幸福の意味を持つクローバーモチーフは定番でもあり、ペアアクセサリーとしても人気がある。だが、どちらかというと女性的なイメージの方が強い。そんなクローバーを男性も身につけやすいようにユニセックスなデザインにできないかと考え、イメージしたのはシロツメ草だ。
彼の感想でその意図が分かるデザインになっていると分かり、ほっとする。
「んー。でも中途半端かな。リーフモチーフっぽくも見えるし。ユニセックスなデザインを狙ってるとしても、テーマ性が弱い。70点ってとこかな」
言うだけ言って満足したのか、彼はネックレスを返してきた。正直、かなり痛いところを突かれただけに、駿輝は僅かに眉を寄せながら、そのネックレスを首につける。
実際、彼が指摘した部分がネックになっていて、このモチーフはまだ完成していない。抽象的にしすぎると、どうしてもクローバーの存在感が弱くなる。クローバーの存在感を残しつつユニセックスなデザインにすることがこのモチーフの課題だ。
「そんな感想ですが、いかかですか店員さん?」
「……正直な感想、有難く受け取ってやるよ」
おそらく彼は駿輝の職業はアクセサリーショップの店員程度の認識だろう。常にアクセサリーを身につけ、その種類も頻繁に変わっている事から、知り合ってしばらくたった頃に、「趣味? それともアクセサリー関係の仕事?」と彼から聞かれ、仕事だと答えた。
改めて、本当に互いの素性を知らないのだと実感する。
「でもいいよね。ゴツイ系のアクセが似合うのってカッコイイ。俺には似合わないもんね」
「別に、いいか悪いかはそれぞれだろ」
好みと実際に似合うものが一致するとは限らない。彼が身につけるとしたら、細身のアクセサリーが似合うだろうが、自分には間違いなく似合わない。
一九○に近い長身と適度に鍛えた身体は、本人が望まなくとも相手に威圧感を与える。目鼻立ちも鋭角なものでできたように鋭く、それに合わせたようにアッシュグレージュに染めた髪が、野性的な印象を放つ。必然的に、似合うのはどうしてもハード系のデザインばかりだ。接客業に向かない容姿だとつくづく思うが、今のところ見た目が原因のクレームはない。
「ところで、駿輝が働く店って、どこ?」
「……教える必要があるか?」
珍しい、どころか恐らく初めての事だ。彼からの探るような質問に眉を寄せると、彼はからりと笑った。
「別に、深い意味はないよ。そのデザイン嫌いじゃないし、実際に店で見てみたいなーって思っただけ」
「70点って言ったくせにか?」
「それはそれ。……というか、別に仕事先ぐらい教えてくれたっていいんじゃない?」
「……必要ねぇだろ」
互いのプライベートを知る必要がある関係だとは思わない。
これ以上相手をするのは面倒だと、ベッドから立ち上がり、床に放り投げていたカバンを拾う。すると、彼はいつもよりも低くけだるい声で言った。
「でも、もう一年も経つんだけどなー」
「……それが、なんだ」
身体だけの関係にしては、長く続いている自覚はある。それでも、関係の発展を求めての長い付き合いではない。利害関係が継続しているだけだ。
どうせ彼はいつものように笑っているだろう、そう思って視線を向けると想像とは違った暗い影を落とした瞳と目が合い、駿輝の心臓がどくりと跳ねた。だが、その影はほんの一瞬で掻き消え、夜の熱を残した甘い目に戻る。
「ま、いっか。これからのお楽しみだね」
「……ねーよ。今後もな」
一瞬垣間見た暗い瞳を記憶から打ち消し、さっさと帰ろうと駿輝は寝室のドアへと足を向ける。
寝室は一人寝には大きすぎるダブルのベッドと間接照明、そして壁の一部は大きな本棚で覆われている。自分と彼の共通点があるとすれば、読書が趣味ということだけだろう。
そういえば、彼と出会ったのは図書館だった。そんな場所で出会っておきながらセックスフレンドという関係になったとは、我が事ながら信じがたい。
「じゃあな」
もう用件は終わりだと寝室のドアに手を伸ばすと、「ちょっと待って」と呼び止められた。
「ねえ。次はいつする?」
いつ会うかではなく、いつするか。会った回数とセックスの回数が同数なのだから、その言葉に間違いはない。かと言って、あからさますぎる彼の言動にはさすがに辟易する。
「知るか。どうせあんたが連絡してきた時だろうが」
「たまには駿輝から誘えって言ってるんだよ」
彼から呼び出された時以外でここに訪れることはない。今更だろ、と駿輝は自分の隣に立った男を見下ろして笑った。
「あんたが呼びたい時に呼べばいい。気が向いたら抱いてやる」
「千鶴」
「あ?」
「あんたあんた言うなよ。名前で呼べよ」
そう言って、彼――遠峰千鶴――は駿輝の頬に手をすべらせた。
「それも気が向いたらな」
「あっそ。わるい男」
唇を尖らせ、拗ねた子供のような反応を見せる千鶴に、一度だけ噛み付くようなキスを落とす。面倒な事を言っても、キス一つで大人しくなる千鶴は子供よりも単純で、大人だ。
あっさりとした別れを済ませ、駿輝は一度も足を止めることなく、リビングと玄関をすり抜け千鶴の家を出た。革製のキーケースから該当の鍵を選び、施錠する。2LDKの分譲マンションはいつ見ても男の一人暮らしには立派すぎる。
そのマンションをラブホテルのように使っていることに違和感を覚える時期はとうに過ぎた。手の中のキーケースには駿輝の家、仕事場、そして千鶴の家の合鍵がそれぞれ並んでいる。すべてが同列に見えるそれにも、もうなんの違和感もない。
遠峰千鶴。自称空間デザイナー。駿輝との共通点は、年齢が二十六であるということと、読書を好むということ。彼のことで駿輝が知っていることと言えばこの程度だ。セックスの相性がよく、面倒事がない。
和久谷駿輝にとって、遠峰千鶴とはそういう存在だった。
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