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「あんのバカ殿め」
御家老の三好藍右衛門は、御城使の細川蓮次郎と共に厠の脇にしゃがみ込んでいる。殿様のひり出した残り香を嗅ぎながら、実に憎らしげに唇を歪めた。
「シッ、お言葉が過ぎまする」
蓮次郎は口に指を当て、親子ほども年の離れた藍右衛門をたしなめた。
「えぇい、過ぎるも過ぎぬもあるものか。何故あの殿様は髷を持ち帰ったのじゃ」
声を荒げる藍右衛門を、どうか落ち着きなされとなだめる若き蓮次郎の頭は、実にスッキリしたものである。
オツムのキレ具合の話しではない。
髷の切れ具合である。
そう。髷はこの蓮次郎のものなのだ。
一刻ほど前のこと。洒落者の蓮次郎は本日夕の刻、西陽のやかましい御広敷にて月代を剃り上げていたところ、遠い親類に当たる藍右衛門に悪戯でワッと背後から驚かされ、こともあろうか、髷を剃り落としてしもうた。
ただそれだけのことである。
しかしやはり、髷は侍の魂なのである。
髪が結えるほど生えてくるまでは、恥ずかしゅうて表も歩けぬ。
ではなぜその髷が廊下に落ちていたのかと言うと、単に誤って、そこに落としてしもうたからに他ならない。
そんなところへ運悪く、よりによって殿様がおなりになってしもうた。
藍右衛門は眉間に深く刻まれた縦皺をより一層濃くして、厠からの臭気に耐えつつ、
「何を食ろうたらこんな臭いになるのじゃ。
とは言え、お前が髷を落としてしもうたのも、半分は儂の責任じゃ。どうにかせねばな」
と立ち上がった。
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