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「神さま仏さま、どうかお願いです。お母さんの病気が早く治りますように……」
パンパンと掌を打ち付け、少女は深々と頭を垂れて願い事を口にした。近所の高校のセーラー服姿で、首にはボロっちい手編みのマフラーを巻いていて、寒さで鼻先を赤くしている。
彼女は病気で入院している母の為に、毎日こんな辺鄙な場所にある寂れた神社なんかにお参りに来ていた。
寒さで冷えきった指先を白い息で温めて、少女は社に背を向けた。
そんな小さな背中を申し訳なさそうに見つめる者がひとり。
彼に名はない。強いて呼ぶなら『妖』だ。
妖はこの神社に祀られていた。あれはいつの頃だったろうか、近くの村で何度か悪戯をしてみたところ、村人が神の祟りだと騒ぎ立ててこんな場所にお社を建ててしまった。しかしお社の中は案外暖かかったし、毎日のように野菜や米が貢物として持ってこられるので、いつしか妖は喜んでこの場に住み着くようになった。
しかし近頃は貢物なんて滅多に無くなってしまったし、人間共が事ある毎にぱちぱち手を叩いては愚痴をこぼしに来るようになったので、いい加減うんざりし始めていた頃合だ。
ただ最近になって現れるようになったひとりの少女に関しては、少々気にかかっていた。ここへ御参りに来る人間なんて大抵の奴が自分の私利私欲しか口にしないのだが、彼女は久しく見るよく出来た娘で、いつも病気の母のことばかりを口にしている。そんな健気で儚げで愛らしい少女の姿を、妖はいつも見ていた。
ただ、申し訳ないと思う。
いくらこの社へ足を運ぼうとも、両手を打ち鳴らして願い事を叫ぼうとも、妖にその願いを叶える力などこれっぽっちもない。彼女の想いも行動も、全ては無駄でしかないのだ。
少女のことが気になった妖は何度か彼女の後について行き、ある程度の彼女の環境を把握していた。
彼女の母は心臓の病を患っている。治すためには多額の金が必要なのだが、既に父親の作った借金が山のようにあって日々の生活を送るので精一杯の状況だった。
何とかしてやりたい、といつもそう思う。
けれど一体何をすればいいのだろう。
以前とある豪邸に忍び込んで金品をかっぱらい、彼女の自宅の玄関先に置いたことがある。これで解決だと妖は得意げだったのだが、次の日彼女の家に警察が来た。あれは失敗だったと妖は反省している。
しかしもう時間は残されていない。少女の母親は時期に死ぬ。それくらいは妖にもわかる。早く手を打たなければならなかった。
母親が死ねば、きっと少女は悲しむに違いない。それは何だか、嫌だあなぁ。
妖は少女のことを想っていた。
ある日、妖は最後の手段に出た。
夜中、少女の母親が入院する病院に忍び込んだ。あちこち這い回って、ようやくその病院で一番偉そうな男を見つけた。
夜中だと言うのに男は机に齧り付いて、メガネをおでこの位置にまでずらして何かの書類をじっと見つめて考え込んでいる。この男がこの病院内で医院長と呼ばれていることも、いつも偉そうに他の従業員達を従えていることも妖は知っていた。
「オ゙イ……」
医院長が座る机の正面に立ち、妖は声を出した。自分の声を久々に聞いたが、やっぱり何だかガサガサしていて変な声だ。
医院長はメガネを元の位置に戻して、ゆっくりと正面に視線を移した。
「ひひゃあっ!?」
素っ頓狂な声を上げて机の上の書類を撒き散らし、医院長は椅子ごとひっくり返った。
大丈夫だろうかと心配したが、医院長は地面を這うようにして何とか逃げようとしている。どうも腰が抜けているようだ。
「オ゙イ」
再び声を出すと医院長は「ひぃい」と声なき声を上げてこちらを見上げたまま、ピシリと石のように固まってしまった。
よく分からないが、このまま話を続けようと思う。
「オ゙シノ、キョウガ、ノハハオヤ、ノビョウギ」
「ひお、おしの……?」
「ナオゼ」
「ひいぃっ」
「ナオゼ」
「ひぃわ、わかった!わかったからぁ!」
「ハヤクナオゼ、デナイド、ノロウ、ゾ」
そう言うと妖は医院長の眼鏡を取り上げて握りつぶした。こうでもしておけば、寝ぼけて夢でも見ていたのだと勘違いすることもなかろう。
しかし少々脅かしすぎたと思う。当然この男を呪うつもりも無ければそんな力も無い。
だがこれで、きっといい方向に向かうはずだった。
翌日、妖は少女の母が寝ている病室の窓から室内を覗き込んでいた。
随分顔色の悪い女性がベッドで横になり、その隣で椅子に座った少女が物凄く嬉しそう笑顔で何かを喋っている。
「……だから、治療費はかからないんだって!」
「本当にそんなことこあるのかしら……?」
「本当だよ!お医者様が言ってたんだもん!すぐにでも手術出来るって!」
窓越しのくぐもった声が聞こえてくる。
少女は涙ぐみながら「よかった……」と何度も呟いている。その姿を影から見ていた妖は、心臓がバクバク暴れ回るくらいの喜びを感じていた。
自分が少女を助けたのだ。自分が少女を笑わせたのだ。その事実だけが、妖にとってはただただ嬉しくて仕方がなかった。
その日少女は一日中笑顔だった。上機嫌の少女の姿を見ていたくて、妖は彼女の後ろについてまわった。
るんるんと少女の歩き方が踊っている。自宅への帰り道に通った商店街の八百屋のおやじに「京花ちゃん、ずーいぶん上機嫌だね〜。何かいいことでもあった?」と聞かれ、「おじさんわかる?!実はね……」とはしゃいでことを話していた。
そんな少女の姿を見ていると、妖は胸のこのへんがムズムズそわそわしてくるのだ。こんな感じは生まれて初めてのことだった。
果てしなくボロボロのアパートの一室が少女のウチだ。玄関に入ると直ぐ右隣に小さなキッチンがあって、左側にユニットバスルームの扉があり、正面にはワンルーム六畳間の畳部屋がある。室内は実に質素で簡素で、部屋の端に畳み置かれた布団とタンスと少し大きくて古い鏡台くらいしか目に入るものがない。以前はこの窮屈な部屋に母親と二人で暮らしていたみたいだ。
今は母親が入院中なので身の回りのことは全て一人でこなしているようで、たった今も少女はふんふんと花歌を歌いながら味噌汁を作っている。
その背中を少しの間だけ見守ったあと、妖は今日はもう帰ろうと玄関の扉をすり抜けて外へ出た。
その時だ。
眉毛が刃物みたいに尖った縦縞模様のスーツを着た男と、もう一人、人間にしては背の高い男が少女の家の玄関前で立ち止まった。二人ともとてつもない悪人ズラで、見た目通りのガラガラしたおっかない声で叫び始めた。
「お嬢ちゃ〜ん」
ドンドンドン。
「お嬢ちゃ〜ん、いるんだろ〜?」
ドンドンドン。
「おーいおじょ」
男がまた乱暴なノックをする前に玄関の扉がガチャりとあいて、真っ青な顔でビクビク身を強ばらせる少女が、ゆっくりと顔を覗かせた。
「な、なんでしょうか……」
「何でしょうかじゃないでしょ。今月返済予定の分、用意できてるかな?」
「そ、それがその」
「用意出来てんのかって聞いてんだよォ!!」
大柄の男が突然怒鳴りあげたせいで少女はビクリと肩を竦め、今にも泣き出しそうな顔に表情を変えた。
スーツの男が手をひらひら上げて後ろの大柄な男を黙らせる。
「お嬢ちゃん、少し中で話そうか」
そう言うと男たちは許可も取らず家の中にぞろぞろと上がり込んだ。
狭い部屋に大の大人が二人も加われば窮屈で仕方ない。
「ご、ごめんなさい……この前も言ったようにお母さんが入院してて、今はお金が無くて」
「おじさん前になんて言ったっけ?来月払えなかったら、本気で覚悟してもらわないといけないよって」
「ご、ごめんなさい……!」
少女は地面に手を付き頭を下げる。そんなひとりの女の子を見下ろして低い声で諭すようにスーツの男は、
「謝って欲しい訳じゃないのよ。おじさん達はお金を返して欲しいのさ。借りたもんは返す、世の中の常識でしょ?僕らは君んとこのお父さんにたっくさんお金貸してるのよ。早く返してくれないと困るんだよ」
「も、もう少しだけ」
「前もそう言ったよな〜」
「お願いします……!」
「ん〜」
スーツの男は少し悩む素振りを見せると、
「んじゃ分かったよ、おじさんも鬼じゃない。君にチャンスをあげる」
「チャンス……?」
「君の親がお金を返せないなら、君が代わりにお金を稼げばいい」
「どういう」
彼女がその言葉を言いかけたその時、突然大柄の男が少女の手を掴み口元を押さえつけた。
「ん゙っ、ん゙ん――!!」
涙と恐怖で顔を歪めながら必死に暴れる少女を、男はいとも容易く制圧する。それを見てスーツの男は口元を吊り上げて笑う。
「おうおう、活きがいいね〜こりゃ金になりそうだ。何ならここで少し味見でもしていこうか〜」
下卑た視線と醜悪な笑みが心底腹立たしい。
少女はろくに声も出せずもがきながら涙を濡らしている。
さっきまで、あんなに笑顔だったのに。
「げはっ――!?」
一瞬にして少女を押さえつけていた男の体がぶっ飛んで背中からタンスに激突した。
妖がただ怒りに任せて右腕のひとつを振るったのだ。
あまりに突然の出来事であった為か、スーツの男は口を開けたまま目を丸くしている。そして錆び付いたロボットみたいに硬い首を捻って、妖を見上げた。
「だ、誰だお前ぇえ……!!いい、いつからそこにいたっ……!?」
男はブルブル震え、歯をガチガチ鳴らしながら叫んでいる。
こいつのせいで、少女が泣いた。
妖は再び腕を振り上げた。
「ひ、ひぃいい――っ!!化け物だぁっ!!」
スーツの男は玄関の扉を叩き開けて一目散に逃げ出し、顔を腫らした大柄の男も泣き叫びながら後を追った。
部屋の中は静寂となった。
男たちの間抜けな逃げざまを見ると、やがて妖の怒りも治まってきた。
すると妖はゆっくりと少女の方を向き、少しだけ照れくさいのだが彼女に視線を合わせた。
少女は尻もちをついたまま、妖を見上げている。まだ身体がぶるぶると震えている。余程あの男たちが怖かったのだろうと思う。
しかし脅威は去った。まるでヒーローの登場シーンのような場面で自分が少女を助けたのだ。彼女の笑顔を奪う悪者を、自分がやっつけた。
その事実が妖には誇らしくて、妙な高揚感すら感じていた。
しかし少女の震えが治まらない。それどころか先程にも増している。目を見開いて一点にこちらを見つめていて、顔なんて真っ青だ。
――大丈夫、もうあの男たちはいなくなったから。
――もうそんなに怯えなくてもいいんだよ。
――またアイツらが来ても僕が追い払ってやるよ。
得意げな妖はそれを伝えようと口を開いた。
「ア゙」
「ひっ」
妖がほんの少し声を発しただけだ。
それでも確かに彼女は身体をビクつかせた。
何かがおかしかった。
「ア゙ノ」
「ひいっ、ば、化け物……っ」
バケモノ。
少女がそう言った。
彼女は泣いている。さっきまで、あんなに笑顔だったのに。
何故彼女が泣いているのか、震えているのか、妖はようやく理解に及んだ。しかし頭の中に浮かんだその紛れもない事実を、決して認めたくはなかった。
彼女と話そう。そうして誤解をとこう。
そう思って妖は彼女の元へ、一歩踏み出した。
『――――――』
その時、視界の端で何かが動いた。
振り向くとそこにあったのは、壁際にある古い鏡台の鏡に映りこんだ自分の姿だった。
バケモノだ。
正しく彼女の言うとおりそうだった。
二メートルをゆうに超える体は全身が炭のように黒くて、頭部にはギョロりとした大きな目玉が五つあって、おまけに棘みたいな指の付いた腕が六本ある。どこをどう見てこれがバケモノでないと言えるのだろう。
完璧に怯えきった目の少女は尻もちを着いたまま後ずさりながら、
「あ、あっちいけ!あっちいけ!」
手探りでそこら中のものを取って投げて、泣き叫びながらこう言った。
「あっちいけっ、バケモノっ――!!」
投げつけられた枕が妖の顔にぶつかって落っこちた。
一体、何を勘違いしていたのだろう。
彼女を助けたと思っていい気になって。彼女を笑顔に出来たと思っていい気になって。バケモノのくせに。
本当に一体、何を勘違いしていたのだろう。
彼女とどうにかなれるとでも思っていたのだろうか。そんなもの叶わぬ願いだと最初から分かりきっていた。バケモノの自分を少女が受け入れてくれるはずなどないと、分かりきっていた。
でもそれでも、この少女に笑っていて欲しかっただけなのに。
醜い目玉から涙がぼたぼたと零れ落ち、古びた畳に染み込んでいく。
それを見て、少女は不思議そうな顔でこちらを見つめた。それを最後に、妖はその場から姿を消し去った。
――――――
真冬の冷たい空気が少女の鼻先を赤くしている。近所の高校のセーラー服姿にボロっちい手編みのマフラーを巻いて、少女は両の手をパンパンと打ち鳴らした。
「神さま仏さま、どうかお願いします。お母さんが早く元気になりますように。そして――」
誰もいなくなってしまったお社の前で、少女の願い事だけが小さく響いた。
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