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好きな女性のタイプを聞かれてもうまく答えが浮かばないが、好きな蝶の種類ならはっきりしている。
幼稚園の頃はカブトムシやクワガタの方が好きだったはずなのに、いつからこんなに蝶を好きになったのだろう。子供の時よりも30歳を過ぎた今の方が夢中になっている気がする。
久しぶりに来た老舗の文具店からの帰り道、五月の風が心地いい。
休日の夕方、のんびりと歩く幸せな時間にも無意識に目線の先に蝶がいないかを気にしている自分に気が付いておかしくなった。
普通、こんな夕方に蝶が飛んでいるはずもないのに。
そういえば最近、ネットで美しい蝶の目撃情報を何回か見つけた。その蝶は不思議なことに日が暮れて少し薄暗くなった頃に現れて、その羽は黄昏時の空のような色をしているという。
たしかこの街でも目撃した人がいたような気がする。保存しておいた画像を確認するため公園のベンチに座った時、下を向いていた僕の頬に何かが触れた感触があった。
顔を上げて辺りを見回すと、さっき歩いてきた道の方へ飛んで行く一匹の蝶の姿を見つけて、僕は慌てて追いかけた。
さっきまでのんびりと歩いて来た道を走って戻り、バラの花が美しく咲いている家の角から入ったところで見失いそうになったものの、蝶はまるで僕に見つけてほしいかのようにまた目の前に現れて、行先を教えるようにふわりふわりとゆっくり飛び始めた。そうだ撮影しよう、そう思って携帯電話を構えた瞬間、目の前をタクシーが横切り、僕は蝶の姿を見失った。
どこへ行ったんだろう。ちょうど目の前に古い喫茶店のような店がある。営業している感じもないが、窓が開いていたので入り口をそっと覗いてみると若い女性が出てきた。
「すみません。今、ここに蝶が入ってきませんでしたか?ピンクのような薄紫のような珍しい羽の色をした蝶を見かけたんですが」
僕がそう質問すると彼女は「ここには入ってきていません」と答えたが、少し考えてから
「でも、この辺りは木やお花が多いから、普段から色々な蝶が飛んでいますよ。私も毎日来ているわけではありませんけど」
と答えた。
ここは彼女の親戚がやっていた元喫茶店で、今は営業していないそうだ。以前からたまに掃除に来ていたが、最近は趣味のカクテル作りに使うリキュール類や道具を持ち込んで休みの日にここで作っているという。
「私は香夜といいます。この辺りの蝶をよく観察しておきますから、良かったらカクテルを飲みに来ていただけませんか?恥ずかしいんですが、私あまりお酒に強くないんです」
彼女は少し笑いながらそう言った。
あれから十日くらい経っただろうか。またネットで蝶の目撃情報を見つけた。場所はあの街、画像は少しぼやけていたが、蝶の傍に写っていた白いバラとレンガ色の塀があの時に自分が見た風景とよく似ている。そして投稿主の名前を見て驚いた。「Kaya」、たぶんあの日に出会った香夜という女性で間違いなさそうだ。今度の週末、僕はあの店に行くことを決めた。
その日もよく晴れていた。蝶と彼女に出会えるかもしれない夕方が待ち遠しい。この前は蝶を追いかけながら通ったので特に何も感じなかったが、景色を眺めながらカメラを片手にゆっくりと歩いていると、なぜかとても懐かしい気持ちになってきた。
どこにでもある普通の閑静な住宅街だが、たしかに彼女が話していたとおり家の庭には木が多く、たくさんの花が咲いている。僕が子供の頃住んでいた街の風景にも似ているような気がしてきた。
「良かった。私の撮った画像に気づいてもらったんですね」
僕の姿を見つけたとたんに彼女が微笑みながら言った。やっぱり間違いなかったようだ。
少し汗ばんだ僕を気遣ってくれたのか、レモンウォーターが目の前に置かれ、好みのカクテルの名前を聞かれた。特にないと答えて、しばらくして出て来たのはモヒートだった。グラスの中のライムと、浮かべてあるミントの葉が美しい。ストローに口を近づけるとき、間近で見たミントの葉脈が妙に怪し気でそっと口で触れてみたくなった。今までこんな気持ちになったことはないが、これは彼女の作ったカクテルのせいなのか、それとも自分が蝶にでもなった気分なのか、不思議な気持ちだ。
彼女が蝶を見つけたのは、僕がこの店に来た翌週の土曜日、時間は今日よりも少し遅い頃だと言った。店の窓から薄い紫になった夕暮れの空を眺めていたら急に目の前にその蝶が現れて慌てて追いかけたらしい。
「もしかしてこの蝶のことかと思って急いで撮ったんです。気づいてもらえたらと思ってネットに上げてみたんですが良かったです」
彼女は花が咲いたような笑顔を僕に見せながら、壁を指さした。
そこに掛けられた絵の中では、満月が桜の花を明るく照らし、その下をたくさんの蝶が飛び回っている。
「ずっと前から家にあったので、特に不思議に思ったこともありませんでしたが、そういえば夜に飛ぶ蝶って珍しいですよね」
僕に見せようと思って飾ってくれたらしい。僕の家にあるのは自分で採った蝶の標本くらいだと話すと、目を輝かせながら「ぜひ見たい」と言ってくれた。
二週間後、ここで会う約束をして店を出ると外は驚くほど明るく、今日が満月だったことに初めて気が付いたが、あの絵のように木の下を飛んでいる蝶を見ることはなかった。
やっと約束の日が来た。彼女に会わなかった二週間は長く、外を歩く時や電車に乗っている時、いつも彼女の姿を探す自分に気が付いた。今日は朝から曇っていたが、昼過ぎから晴れてきた。
店に入ると彼女が笑顔で迎えてくれた。今日は美しい水色のブラウスを着ている。速足で歩いてきたせいか少し息が上がった僕を見て、今日もよく冷えたレモンウォーターを出してくれた。
たわいもない話をしながら彼女の顔を見ているだけで楽しい時間が過ぎていく。すっかり忘れていたが、今日は彼女が見たいと言っていた蝶の標本を持ってきたのだった。
めったに蝶を採ることはないが、以前うちのベランダに飛んできた2匹があまりに珍しかったので捕まえて標本にしたものだ。アゲハ蝶くらいの大きさで羽にバーコードやQRコードのようにも見える変わった模様を持っている。その他にも数種類の蝶の標本を持ってきた。彼女に見せるとその不思議な模様に、驚きの声を上げてじっと見つめている。時々、ゆっくりと瞬きをする度に漆黒の長いまつ毛か光っていた。
「すごいわ。貴重な物を見せてもらってありがとうございます。お礼にカクテルを作りますね」
そう言って彼女が持ってきてくれたのは薄いピンクから紫へのグラデーションが美しいショートカクテルだった。あの夕方に現れるチョウの羽をイメージして考えたそうだ。賑やかな昼と静かな夜の境目の時間を表しているようにも見える。一口目は甘く二口目は少しほろ苦い。
「うん、おいしいよ」
僕がそう言って彼女が嬉しそうに笑った時、突然店の蛍光灯が消えた。
「ブレーカーが落ちたのかな。僕が見てみよう」
外はまだ完全に暗くなってはいなかったが、椅子に登らなければ届かない場所を見るには光が足りない。携帯電話で照らしながら手探りでブレーカーの位置を確認している時、突然バランスを崩して僕は床に叩きつけられた。
少し気を失っていたのだろうか、部屋は明るくなっていた。彼女の姿を探すとカウンターに座って何か飲んでいる。柔らかそうな生地の水色のブラウスを着て、ぐるぐるした形のストローで何かを飲んでいる彼女を見ていると、少年の時に見た蝶を思い出した。そうだ、水色の羽をした美しい蝶が花の蜜を吸っている姿を間近で見たあの日から、僕は蝶に心を奪われたんだ。
「ごめんなさい。大丈夫?」
彼女が心配そうな顔で僕に近づいてきた。
「頭は痛くないから平気だよ」
そう答えると、彼女は僕の髪を優しく撫で、頬に触れてきた。
「香夜、僕は君のことを…」
彼女が僕の唇をふさいだ。柔らかな感触としびれるような甘い味が僕を包んだ瞬間、カウンターに置いていた標本の蝶たちがヒラヒラとケースから飛び出して、壁に掛かった絵の中に吸い込まれて行くのが見えた。たくさんの仲間と一緒に月光に照らされた桜の木の下を飛んでいる。僕の意識はまた遠のいた。
「これだ、間違いない」
静まり返った店の裏口から二人の男が入ってきた。彼が持ってきた標本の蝶に特別な光を当てて羽の模様をタブレットで読み込んでいる。
絶対に外国へ漏らしてはいけない彼らの国の重要機密だ。亡命に失敗したこの国の研究者がなんとかしてこの情報を外国に出そうと、蝶の羽根にデータをプリントして飛ばしたのだが、台風の影響で想定外に遠くまで飛んできたらしい。
「作り物の蝶を飛ばした目撃情報に引っかかってくれて助かったよ。それにしても、あの女はもう消えたのか。いい協力者だったが、不思議な女だったな」
二人の男達は電気を消してそっと裏口から出て行った。今日は新月、閑静な住宅街はいつもにも増して深く静かな闇に包まれている。
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