クロノスタシス

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クロノスタシス

 数瞬の静寂。俺は身震いしながら大きく深呼吸をし、ギターと一心同体になった。  この瞬間になるといつも、さぁ、自分が生きていることを証明してやるんだとばかりに、身体中にエナジーが漲っていくのがわかる。暗がりでスポットライトに照らされる中、集まった観客の視線を一身に受けた。 「それじゃあ、聞いてください。……冷たい月」  何度かき鳴らしたろう。何度叩きつけたろう。有り余る情熱を。漠然とした不安を。あるかどうかもわからない、自分自身の可能性を。  胸の高鳴りを落ち着けながら、滑らかに弦を弾いてゆく。  ライブはいい。気ままに弾くのも好きだが、こうして全神経を集中して、適度な緊張感を持って、積み重ねてきたことを、培ってきたものを、魂の赴くままに解放してゆく感覚。それは、観客の前でしか得られるものじゃなかった。 「あの、すごく感動しました!」  ライブが終わり、荷物をまとめてバックヤードから出ると、突然若い女が声をかけてきた。 「ああ、ありがとう。嬉しいです、そう言ってもらえると」  ハーフアップにした黒髪のすぐ下で、大きな輪っかのピアスが光っている。 「私、色んなライブハウスに通ってるんですけど、初めてかもしれません。こんなに心に響いたの」  女は目を輝かせながら、帰ろうとする俺の進路を遮った。 「本当ですか?はは、そんな事言ってもらえたの、俺も初めてだ」  わざわざ話しかけてくれたぐらいだから、大げさに聞こえる言葉だとは言え、まんざら嘘でもないのかもしれない。 「ええ、もちろんです!感動のお礼に、一杯、奢らせてください」  女性は大量のリキュールやウイスキー、ブランデー等が並ぶバーカウンターを一瞥して言った。 「いやいや、それは……」 「ぜひ!」  有無を言わさぬ勢いに、気圧されてしまう。女の瞳はライブハウス「アシッドワークス」内の多彩な照明に反射し、万華鏡のようにキラキラとしていた。 「ええと、ではお言葉に甘えて」 「何になさいますか?」 「マリブミルクを、お願いします」 「マリブミルク?随分可愛らしいものを飲まれるんですね」  女は屈託なく笑うと、駆けるようにカウンターへ向かった。俺はポリポリと頭をかきながら、それを追いかける。 「ハイネケンと、マリブミルクをください!」 「はい、少々お待ちを」オーダーを受けた長髪に髭面のマスターが、ウインクをかましてくる。「良かったな。こんな美人のファンがついて」  俺はわかりやすく照れながら答えた。 「そんな、ファンだなんて」 「いえ、ファンです!」酔っているのか、女は俺の腕を組みながら宣言した。随分積極的な子だ。「セツナさんってアーティスト名、どういう由来なんですか?」 「由来って言うか、本名なんだ。下の名前が、セツナ。一瞬って意味の、あの漢字さ」  俺はわずかな動揺を隠しながら言った。 「へえ、そうなんだ!かっこいい!」  腕を組む力が強まり、体を押し付けてくる。 「ま、まぁ名前負けしてるけどね」  マルボロに火をつけながら、俺はまんざらでもなく謙遜した。 「そんなことないですよ!あ、私はトモカって言います。月二つに、香りで朋香」 「……朋香ちゃんか。そっちも、いい名前じゃん」  俺が軽口を叩いた時、マスターがトライバルのタトゥーが入った両腕で、ハイネケンとマリブミルクをカウンターに差し出した。 「お待ちどうさん」 「ありがとうございます!……じゃあ、乾杯しましょ」  朋香がグラスを傾けてくる。 「何に?」 「出会いに!」  チン、と鳴らすと、朋香はゴクリ、ゴクリと勢いよく喉を鳴らした。それを見届けると、俺も大口を開けてマリブミルクをあおる。トロリと甘ったるいアルコールが、渇いた喉にへばりつくように流れていった。 「あ!」  その時、酒が並ぶ棚の上の古びた掛け時計を見て、朋香が叫んだ。 「ん?何?」 「クロノスタシス!今、時計の秒針が止まって見えた!」 「クロノ……スタシス?」  彼女に倣って、俺も掛け時計に目をやる。 「目の錯覚ですよ。時々ありません?」 「秒針が止まって見える、か……。そう言えばあったかも」 「刹那さんの歌を聞いた時にも、感じたんです!一秒一秒が、長く。クロノスタシスは聴覚的にも起こる、って聞いたことあったんだけど。それを、初めて感じたんです!」  朋香は興奮しながら言った。 「そうなんだ。聴覚的にも。それは、感じたことないな」  そう答えながら二口目を喉に流し込むと、突然後ろから肩を叩かれた。 「よう!お疲れさん」  振り返ると、夜のライブハウス内にも関わらず、サングラスをかけた中年の男が立っていた。 「あ、どうも」  俺の順番の前に弾き語りをしていた男だ。確か演奏中もサングラスをかけたままだった。
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