クロノスタシス

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「兄ちゃん、なかなかいい歌うたうねぇ。だけど、あんな綺麗に歌い上げるだけじゃまだまだだ。もっと情熱的に、心の奥から吐き出すようにやらなきゃ、人の心には響かねぇ」 「はぁ。そっすか」  俺は、露骨に興味なさげな言い方で返した。 「若いんだからよ。全力でやんなきゃ。ま、頑張りな」  男はもう一度肩を叩くと、鬱陶しい音色の口笛を吹きながら出口へと向かった。 「……なにあれ。やな感じ!」  朋香が男の背中を睨みつける。 「いるんだよたまに、ああいうのが」マスターがビールを口にしながら言った。「上から目線でウダウダ言ってたが、なんにもわかっちゃいないのさ。音楽ってのは理屈じゃない。良いものは良いんだ。刹那の才能が本物だってことは、普通はすぐにわかる」 「なんですかマスター。珍しいっすね、そんなこと言うの」  アシッドワークスでライブをするようになって一年が経つが、俺に才能があるだなんてマスターに言われた事は無かった。 「お嬢ちゃんの耳は確かだよ。売れるかどうかは別問題だが、これからも応援してやってよ」 「はい!もちろんですよ。刹那さんがライブする時は、必ず来ます!」  朋香がそう答えた時、ポケットのスマホが震えるのがわかった。取り出すと、画面には世良の名前が表示されている。電話で口喧嘩してから連絡を無視していたが、かかってくるのは久しぶりだった。 「ちょっとごめん。……はい」  電話を取ると、通話口から耳心地の悪い声が聞こえた。 「相棒、電話取れよ」  俺はいつものその呼び方に、早速イラッとする。 「大して用事もない癖にかけてくるからだよ」 「お前付き合い悪いよな最近。……ん?今、外か?」  電話を通して喧騒が伝わったらしい。 「ああ、アシッドワークスでライブだ」 「またかよ。飽きもせずによくやるなほんと」 「お前には関係ない」 「俺も久しぶりに顔出そうかな」 「バカか、出禁食らってるだろ」  俺の言葉に驚いて、朋香がこちらを見た。 「冗談だよ。もう終わったんだろ?帰りにウチ寄ってけよ」 「何しにだよ」 「良い酒が手に入ったんだ。たまには付き合ってくれよ」  最後に会ってから、2ヶ月ほどが経っていた。俺はため息をつきながら答えた。 「すぐ帰るぜ。もうちょっとだなんだって、ごねるなよ」 「わかったわかった。じゃ、待ってるぜ。マスターによろしくな」  電話を切ると、掛け時計に目をやる。午後十時を回ろうとしていた。 「……世良か。あいつとつるむのはやめとけって言ったろう。最近ますます変なのとの付き合いも増えてるって聞いたぜ」  マスターは煙たそうな顔をして言った。 「わかってますけど、あいつとは腐れ縁なんで」  俺は残ったマリブミルクを飲み干すと、マルボロをもみ消して立ち上がった。 「行っちゃうんですか?」  朋香がひどく残念そうな表情を見せる。 「ああ」 「あの、また会えますか」 「ライブがなくても、週末は大体ここにいるよ。ごちそうさま」  俺は多少の名残惜しさを感じながらも、ギターを担いでライブハウスを出た。  秋の夜の涼しい空気が心地よく体に染み込む。  都会のネオンを横目に、時間に関係なく流れる人波へ紛れ込むようにして、俺はアシッドワークスを後にした。 「来たか、相棒!」  ボロアパートのインターホンを鳴らすと、酒臭く息巻いて世良がドアを開けた。 「その相棒っていうの、やめろよ」俺はうんざりしながら部屋に入った。「……寒っ!もう夏は終わったんだぜ。なんでクーラーつけてんだよ」 「まだ暑いよ。これぐらいの方が気持ち良いじゃねぇか」  根っからの快楽主義者にふさわしい、世良らしい言葉だった。近所迷惑なくらいの爆音で、下品なラッパーのヒップホップが鳴り響いている。  食器でいっぱいになったシンクを尻目に、3畳ほどの狭いキッチンを通る。タバコの臭いが充満したワンルームの部屋の中には、チューハイやビールの空き缶が雑多に転がっていた。テーブルの上を見ると、吸殻でいっぱいになったガラスの灰皿、コンビニ弁当の空き容器、読み直しているらしい昔の人気コミックが積み上げられている。世良はフラつきながら万年床に倒れこんだ。 「少しは掃除しろよ、よくこんな所で寝られるな」  俺は散らかったゴミをかき分けて、テーブルの前に腰を下ろした。狭い部屋に似つかわしくなく鎮座している、未だ現役の巨大なCDコンポに手を伸ばして、音量を下げる。 「あっ!何すんだよ」 「そのうち追い出されるぞ、あんまり好き勝手なことしてたら」 「苦情なんて来たことねぇよ。俺が引っ越してきた翌々月に、隣の奴は引っ越していったみたいだけどな」  俺は悪びれず放たれたその言葉にため息をついてから、言った。 「派遣の引っ越し業者は続けてるのか?」
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