クロノスタシス

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「……はい。わかってます。でも、刹那さんの歌を聞いた私は、幸せな気持ちになりました」  その言葉に、苦笑しながら首を振る。 「そんな、大げさな……」 「ずっと、歌っててくださいね。私、ずっと応援しますから」  朋香はそう言い終えると、再びカウンターに頭を落とした。その言葉には、何か大きな力がこもっているようにも聞こえた。 「そう突っぱねてやるなよ。大勢にウケるのも大事だが、誰かにここまで言ってもらえる歌をうたえる奴なんて、そういないんだ。自信持ちな」  マスターが、マリブミルクをカウンターに置きながら言う。 「……今更、音楽で飯食っていこうだなんて思ってませんから。こんな風に言ってもらえるのは、嬉しいっちゃ嬉しいですけどね」  グラスを軽く傾けてそう言った時、ギターの音色が止まり、歓声と拍手が沸き上がる。 「ありがとうございました!」  俺も周囲に倣って手を叩きながら、ステージの青年に目をやった。彼は、とても満足そうに、キラキラとした笑顔を見せていた。 「すいません。刹那さんといっぱいお話しようと思ってたのに、潰れちゃってて」  半分体を預けながら、朋香が申し訳なさそうに言う。 「そんな日もあるさ。また、ゆっくり話そう」  繁華街を抜けると、明かりは満月と街灯だけになっていた。駅を目指して、人気のない公園を通る。 「今年は紅葉、見に行けるかなぁ」  おぼつかない足取りで、公園に生えた木を見上げながら彼女が言った。 「紅葉か。短い期間だから、なかなかね」 「……小さい頃、毎年ハイキングに連れて行ってもらったんです。山の中腹で休憩して、お母さんが作ってくれたお弁当を食べて。それが、すっごく美味しかったんですよ。……あ、ちょっと休憩しましょ」  朋香はベンチを見つけると、そう言ってぶっきら棒に俺の手を引いた。 「俺も覚えがあるよ。確か、ちょうど秋だった。紅葉も見たよ」  俺は導かれるまま、ベンチに腰を下ろした。 「子供の頃の時間の流れ方って、ゆっくりでしたよね」  俺にもたれかかりながら、彼女が月を見上げて言う。 「うん。取り戻せない感覚だよ」 「……案外、そうでもないかもしれませんよ。刹那さんにもう一度会うまでのこの一週間、凄く長かったから」  朋香の言葉に俺は笑った。 「そうか。それも例のクロノスタシスの一種かな?」  彼女もそれを聞いて笑う。 「ええ。きっとそう。刹那さんと出会ってから、私の時間はゆっくり進みだしたのかも」  ……子供の頃みたいに、時間がゆっくり、か。なんだか、羨ましいな。  不思議と俺は、朋香の言葉でそんな風に感じた。 「……紅葉、予定が合えば見に行こうか」 「え?」  もたれ掛けていた顔を上げ、耳を疑うように彼女が言った。 「いいかもしれない。たまには、そういうのも」  深まる秋の気配がそうさせたのか。俺の歌に感動してくれたお礼のつもりなのか。単に、積極的な朋香に心を動かされたのか。自分でも、なぜそんなことを口にしたのかはわからなかった。 「……嬉しい」  彼女はそう呟きながら、再び俺の肩にもたれかかった。    歌手になんてなれない。どう頑張っても。そう思って、俺は一度歌を辞めた。そして社会に揉まれていくうち、このまま俺は終わっていくのかと怖くなった。心に穴が空いたような感覚を携えながら、俺は日々を生きた。どうにかなるわけじゃない。それでも、もう一度夢中になってみたかった。  不思議な感覚だった。その俺の歌を聞いて、これほど評価してくれる人は初めてだった。俺の消えかけていた情熱を再び燃やしたことが、微かに、報われたような気になった。ずっと誰かに届いて欲しかった、俺の心の叫び。それは、意外にもあっけない形で、こうして実現したのかもしれない。  ポケットの中で、スマホが震える。  ディスプレイには、世良の名前が表示されていた。  俺はため息をひとつついて、スマホをポケットの中に納めた。 「……電話?いいの?」  朋香が、心配そうに言う。 「ああ。いいんだ。どうせロクな用件じゃない」 「……もしかして、世良さんって人?」彼女は、怪訝そうな表情だった。「マスターに彼のこと、色々聞きました」 「そう……かい。ロクな話じゃなかったろう?」 「はい、正直。……みんな彼から離れていくけど、刹那さんはそうしない、って」  俺はマルボロに火をつけると、深く煙を吸い込み、ゆっくりと宙空に吐き出した。 「……中学の時に、さ。お袋が倒れてね。突然だった。親父は、悲しみに暮れるまもなく、働き通しだった。夜遅くに親父が帰ってくるまで、俺は、いつも一人で待ってたんだ」  彼女は、黙って聞いていた。
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