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それから、私たちは春になると藤の花を見に歩いて出かけました。
言葉にして約束を交わしたわけではありません。気持ちだけでなにかが通じ合うことに幸福を見出せたのは、人生でも大きな収穫の一つでした。
夫婦の花見は十年目で終了しました。
今年も藤は綺麗に花を咲かせていることでしょう。山道を踏みしめながら、微かな甘い香りが風に乗っているのを感じます。
いま、私はひとりで山道を進みます。
結婚十一年目を迎えてすぐ、あなたは私を置いて旅立ちました。病を隠していたのか、無自覚だったのか。もう確認することもできません。
ひとりで歩く道中は、色んなものが後から付いてきます。
後悔、絶望、辛苦、哀切……どれも色を持たずに、ひたひたと私を蝕んでいくものばかりです。
緑が胸襟を広げる道の先には、なにも見えません。生きていれば自然と浮かべてしまう希望という名の救いは、私にはもう見えないのです。
――佳恵さん。
あなたの声が、聞きたいです。
――いまはもう、怖くない。
息を引き取る時ですら、あなたは穏やかな面持ちでした。私という存在があなたの恐怖を和らげることができたのでしょうか? わからない。あなたの口から答えを聞きたいです。
ちらちらと降り注ぐ光が歪に視界を塞ぎました。もう枯れ果てたかと思っていたのに。
いつのまにか頬を伝う涙を手の甲で拭いました。
悲しみを追い払うことができないのは、私たちが築いた歴史が短すぎたせいでしょうか?
あなたを愛したせいでしょうか?
私の問いは、一陣の風によって塵となりました。涙で濡れた頬を撫でる風に、藤の気配が強まります。機械のように一歩、また一歩と足を繰り出します。
藤には毒があると教えてくれたのは、あなたでしたね。
一際大きな花を見つめながら、熱心に語っていた横顔をいまでも思い出せます。
大量に摂取すれば、本当に死ぬのでしょうか?
薄紫色が体内に蓄積し、指の先まで毒が浸透するにはどれほど取りこめばいいのでしょう?
清涼感のある甘い香りに、私の思考は霧消していきました。
うねる山道の脇に広がる小さな幻想郷が、静かに私を迎え入れます。足元には無数の藤の花びらが敷き詰められており、今年はまた開花が早まったようです。
「透さん」
私の声を儚い紫色が包みます。風に散る花とともに、どうかあの人へと届けてほしい。
「ひとりで逝くなんて、あんまりです。やっぱり、あなたは――……」
孤独が私に寄り添います。はらはらと音もなく、深く影を落として。
あなたは冷たい人でした。
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