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母は、怪物を「なおちゃん」と呼ぶ。
直也という名前だからだ。
彼女は僕のことは一貫して「しげる」と呼ぶ。
ちゃんづけなどされたくないが、歴然と差をつけられているのはよくわかる。
「ムノウ」
怪物は、僕をそう呼んでいた。
怪物の弟として誕生した僕は、物心つく頃には、すでにその呼び名だった。
兄弟として親しく遊んだ記憶はない。
それでも、怪物が部屋に引きこもる前は、時折、家の中で顔を合わせることはあった。
なにせ、怪物は進学校に在籍していたので、塾やらテスト勉強の追いこみやらで、凡人の僕とは食事時間すら異なったのだ。一日中、顔を見ない日の方が多かったのではなかろうか。
「ムノウ」
家の廊下で、玄関で、擦れ違いざまに囁かれた短い言葉。
僕の心は麻痺して動かない。
怒って拳を上げることも、その場にしゃがみこんで泣き出すこともできずに、僕によく似た怪物の瞳をじっと見つめる。
三日月形に歪んだ怪物の瞳は、じつに満足そうに微笑んでいたものだ。
あの時の怪物の顔は、いまでも忘れることができない。
思い出すたびに、僕の心臓は跳ね上がる。
ぎゅっと自分の腕をつかんで言い聞かせる。
僕はムノウかもしれないけど、怪物なんかじゃない。
ムノウの僕は、家にいる間も怪物に居場所を奪われ、蹂躙され続けている。
一見、愚鈍そうな怪物だが、暴れた時の威力は凄まじかった。誇張ではなく、家が半壊した。たった数度の「威嚇」に、両親は完全に平伏したのだ。いまでは、部屋の内側からドアを蹴るだけで、家族は思いのままである。
口から炎を吐きながら人界を破壊するフィクションの怪物と大差ない。
すべて、アイツが奪っていく。
父が働いて得るお金も、母の盲目的な愛情も、僕というちっぽけな存在も、すべて。
すべて、怪物に奪われていく。
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