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近所を散策するのは初めてです。
集落では若者扱いの人間が、真っ昼間からフラフラしていれば、どんな噂が立つかわかりません。自然豊かな土地で暮らしているにも関わらず、私の出不精には磨きがかかっておりました。
前を歩く藍色のセーターの背中を、初めて頼もしく思います。なんだか、今日は初めて尽くしです。
「いまはもう、怖くない」
「え?」
歩きながら唱えた夫がどんな顔をしているかはわかりません。わかるのは、彼の声がいつもより弾んでいる気がしただけです。
「子供の頃は、こうして山道を歩くのも怖かった。昼間でも薄暗くて、鳥の声はするのに姿は見えなくて……。でも、いまは」
夫の声が途切れると同時に、開けた場所に着きました。軽く息が上がり、立ち止まった体は温まっています。翠陰を切り取ったようにぽかりと顔をのぞかせる青空を目にして、どこか安堵を覚えました。
「僕は、単純なんだ。こうして、佳恵さんが一緒だと思うだけで、自分が強くなった気さえする」
そういう台詞は目を見て言うべきなのでしょう。淡々とした温度のない声では、戯言と疑うのも無理はありません。
あなたの声は、薄青色を纏ったまま、そっと私に届きました。
「ああ、やはり満開だ。……昔はね、怯えながらここまで来たものです。花の香りを嗅ぎ取ると、どうしても目で確かめたくなる。子供は誘惑には勝てない生き物なんだ」
続くあなたの声は、ゆるりと新たな色を生み出しました。抑揚のない、単調ないつもの声が、青味を残した紫色へと変貌を遂げます。
二人で見上げた先には、藤の花が見事に咲き誇っておりました。
幹回りは三メートル、高さは十メートル以上はありそうな巨木の枝に、無数の花が揺れています。よく見ると、杉の木に藤の蔓が巻きついているのです。優雅な藤棚からは想像もつかない野生の力強さに、目を見張りました。
藤は、支配を見せつけるように、無数の花を揺らします。
四月の風がのんびりとそよぐたびに、世界は紫色に彩られていきました。淡い水色の空にたゆたう紫の波は、繰り返し心の淵に打ち寄せます。
「誰かとこの景色を見るのは、初めてです」
「あ、また、『初めて』」
思わず呟くと、あなたは怪訝な顔で私を見下ろしました。初めて――また、使ってしまいました――あなたと向き合えた気がします。
数え切れない『初めて』が、二人の間で日常として蓄積していけば、次第に夫婦は形を成すのでしょうか?
帰り道、繋いだあなたの手は指が長く、ひんやりと冷たい感触でした。
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