紫のヒマワリとファンデーション

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「ヒマワリが、俺に、咲いた」 ビルに反射する日差しがきつい8月の終わり、神田のオフィス街の谷間にヒマワリが歩いてきた、俺のために、たぶん。 帽子と髪の間の汗を振り払う、大手ガススタンドのエンブレムが汗染みになっていて、[店長加藤貴司]と書かれた名前が滲んでいる。 「てんちょー、かとーさあーん洗車の客ですよー!」 (大事なところで、うっせえなバイト1号田中は!) 「分かった、すぐ行くよ、あと語尾伸ばし止めろよ」 「うーっすー、あしたー」 「全然分かってねーな、これだからバイトは頼りになるよ」 黄色いワンピース、よく目立つ、遠目に見えるかすかな笑顔、道路の反対側には天国が広がるのかもな、とぼーっと見とれる俺をわざとらしくバイト1号田中は現実のガソリンの臭うお花畑に引き戻した。時間は5時きっかり、まだスタンドの照明は点かず、西日の方が明るかった。 大きなオフィスビルの社員とガススタンドの雇われ店長、声を掛ける時があるなら、車のガスを入れに来た時だけだろうと、隣に座る別の男の助手席か何かで、その時もただ一言だろうあるのは「ハイオク、満タンですね」で。 満開のヒマワリの様な(想像しただけ)笑顔の彼女を、俺は、葵と名付けた。 「ヒマワリが、枯れた」 10月の終わり、夕暮れ時のこの時間彼女はいつもここを通り過ぎる、はずだった、向かいのオフィスビルから出てくる。 道路を隔てた反対側、ガソリンスタンドの照明がオフィスビルのフロアガラスに反射している、まるでモザイクが掛かったような俺の姿、ガススタンドの雇われ店長で強がりたくて半袖をさらにまくって何とか腕の太さを自慢し腕力自慢のバイト1号田中にに挑戦しようとしている、寒い少し。  今までの彼女なら、高いピンヒールを履いてガラスに映る自分の姿をじっと見ながら、髪をかき上げフロアをゆっくりと遠ざかる。だが、その日は違った、こっちのスタンドの照明を避けるようにさっとビルの隙間に潜り、影のように暗闇に消えた、跡形もなく。 明るい色の服は消え、この頃からは黒いスーツとスラックスが基本になった。顔からは笑顔が消え、萎れて猫背ばかりが目立った。 「何かあったんだろ、話してくれよ、俺でよかったら!」と車の窓を拭きながら俺は思った、そしたら 「何やってんだよ、傷がつくだろ、おい!」 「あ、すいません!」 タオルを握る手に力を込め過ぎたのか車のフロントガラスにくっきり跡が残っている。俺が客にペコペコ平謝りしてる間に、彼女小日向葵はすっと谷間に消えていった。  11月も半ば、午後4時を過ぎた頃、スタンドの照明は灯らず薄暗い。俺の心もなぜとは言わず暗い、空はスカッと晴れているが、心の中は木枯らし1号どころか16号が吹き荒れている。 「辞めるのかな、この会社」 「あーナンすか、ばっくれんすかてんちょー、早すぎっすよ4時からキャバクラすっかー」 からんとした客の居ないスタンドにバイト1号田中の野太い声が響く、まさにうざい。 「季節外れの夏休み、か」 何かを抱え込んでいるのか、今朝の出社の様子は変だった。彼女とは思えた、が、大きな不似合いなサングラスをかけ地味なコート、手には大きな紙袋を下げ、仕事に来たというよりはまるで自分の私物をもって帰る、そう退職していく人間の行動に見えた、俺には。そして、足取りはぎこちないほど重々しく、シューズに鉛でも入っているかの様だった。 「あ!?」 フロアの明かりも点いてないロビーから彼女が走って出てくるのが見えた!俺はその姿を見て持っていたウェスを放り投げて、走る車も関係なしに道路を横切って反対側に駆け付けた。 「ど、どうしたんだ、葵!」 「え、あ、あれ?誰、青いってそんなに!」 「なあ、何階の誰なんだよ、教えろよ!」 「ちょ、ちょっと、どこへ!」 そりゃそうだろう、止めるなよおい誰だよ俺の腕を引っ張る奴はと。 髪も服装も派手な色のスーツも胸元は開いて下着が見えそうになって、裸足でしかも左手にシューズまで持って走って出て来た彼女が、会議室かどこかで、弱みを握った会社の上の野郎にどんな目に合わされたのか大体想像が付く。 俺がビルへ飛び込もうとした時、強烈な力で引っ張られ彼女の目の前に立たされた。 (なんだこの力、腕がしびれたぞ?) 「む、向かいのガススタンドの人、ですよね?」 「い、いや、僕は警察官で、あなたが暴行を受けたので駆け付けたんだ」 俯いた彼女は震えながらこぶしを硬く握って、こちらを向いた。 「あ、顔、、、」 抑えきれない衝動がこみ上げてきた、ガススタンドの照明が点き、彼女の顔を薄っすらと照らした。左目に大きな青あざだ、ファンデーションで隠しているが、それでもかなり目立つ。目の前が真っ赤な炎に包まれて、俺はもう一度ビルに入ろうとした時だ。 「お願い、一発やらせて」 「は、はあ!?」 人生で一度も、これからも聞かないかもしれない言葉を彼女の口から聞いて、俺はその場でくるくる回り始めていた、誰か止めてくれ! 「それどころじゃないだろ、その青あざ、事件なんだぞ分かってるのか!」 「頼むから、お願い、どうしてもなのどうにもならないの、あなた見て、止められなくて、たぶん、一発やらせて」 照明が彼女の顔を照らす、日が沈みかけ、ビルのロビーにも照明が灯る。 ガラスに映った俺と彼女の姿、ガススタンドの擦り切れた制服と、胸元が開き乱れたタイトミニのスカートの、二人。薄っすらと涙を浮かべた彼女の目を見て、俺の体が吸い寄せられていった、ここだ、と。 「安心しろよ、俺は信じてるから、君は何も悪くない、だから、、、」 そう言って小柄な彼女の体を抱き寄せようとした瞬間、俺の体が宙を舞った、ん、地面が近くにあるぞ? 「せいや、そりゃ!」 これが恋に落ちた衝撃なのか、と自分を納得させたかどうだか知らないが、鈍い俺の体がやっと彼女の放ったハイキックの痛みを運んできてくれた。 「ん、んげっ!」 「や、やった、あ、大丈夫でしょ、あなたタフそうだから、ねえ、効いてた効いたの効いてたの、答えてよ私のキック、かなりイケてるでしょ!」 「ど、どこだ、俺?」 ぐるぐる回る俺の目が、その真上に彼女のスカートから下着がちらりと覗く、黒いちょっと長い、そうか冷え性なんだな、いや太ももまである下着か、これスパッツだろ、下着じゃないと思えた頃やっと体が動きだした。 「会社の奴に派遣の打ち切りされたくないならって、脅されてきて今日逃げてきたんだろ。それで逃げ出す内にそうなって。我慢してきたんだろ夏から、ずっと、俺は気にしてないから」 「え?やだ、ちょっとキモイ、ねえ大丈夫?」 半笑いで仁王立ちの彼女を前に、何とか踏ん張ってきた俺、立とうとしてまた尻餅を着いた。 「だってトイレでとか、あいつしつこいんだから、ちょっとやらせたら即エラそーに自分の女だぞみたいな顔で、みんなの前で命令するは、経費をちょろまかせだの、カラ出張お領収書作れだの、カミさんにばれたから謝罪の文面作って添付しろだの、どーしよーもなくって!」 「じゃあ、じゃ、その青あざは、DV受けてたんだろ会社で悪い事に手を貸して、裏切るなって毎晩やられてたんだろ?」 「これ、ジムで」 彼女が俺に向かって顔を近づける、胸元からやっと甘い香水の香りがしてくる、なんで今頃香ってくるんだよ、ただ今俺の鼻と口の中は鉄さびの血の匂いが充満してるよ、残念ながら。 「私、染谷かすみ、あなたは、あ?」 「俺は、えっと」 「加藤貴司ね、今度登録しとく」 「な、なあ、え、ど、どうして!」 「付き合ってくれない、今晩!」 彼女小日向葵は改め、染谷かすみは、俺の手を引っ張って歩きだした。 「ちょっと待って、どこに行くんだよ、俺仕事あるんだよ、見てるだろ毎日あっちのガソリンスタンドで!」 「へーきよ、ほら!」 かすみに言われてスタンドを見ると、へらへら笑ったバイト1号田中が手を振ってこっちを見ている。手で輪を作りおかしなサインを送っている、あのバカ人が見てるだろ、って声も届かないだろうけど。 「今日ね、そのバカにハイキックくれてやったの、会社は知らないけど静かだから今は経費の使い込み調べてるんじゃない」 「も、戻らなくて良いのか?」 「駅前のキックボクシングジム、行くのよ、これから!」 「つながってねーよ!全然!」 「この2か月ね、ジムに通ってキックの練習してたの、あいつにぶちかましてやろうと。で、昨日油断してたトレーナーに良い感じのキック入れたら怒っちゃって、お目玉貰っちゃたの、で、これ」 「なんだよ、それ」 「でね、本気で効いたのか自信なくて、何か怖くなってそこにあなたが居たから、つい、ね」 「ゲーセンのあれかよ、俺は!」 「笑うの我慢してたら、なんか、涙が出てきて、おかしいよね」 「おかしかねーよ、自然だし」 俺はかすみの手を握り、道路を渡りだした。スタンドまでゆっくりゆっくりと、日が沈むのを楽しむように、照明と暗闇が行き交う間を抜けて。 「仕事終わるまで、待っててくれよ、トレーナーと会いたくないだろ?」 「フーン」 かすみはじっとスタンドの照明を見上げていた。かすみを照らす照明は、ただのガソリンスタンドのライトだけど、温もりを感じた。 「良いところだね、ここ、リングみたい」 「あ、ああ」 「始めよっか、第2ラウンドここで!」 腕を回し、柔軟体操まで始めたかすみに、俺は缶ジュースを渡して 「元気は取っておけよ、はい、燃料補給だよ」 「アリガト」 俺はスタンドの天井を見上げた、いつもは何とも思わないのに、今夜の照明は特に暖かい。
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