1人が本棚に入れています
本棚に追加
二人:コンプリメンタリーカラー 3
窓から滑り込んでくる水滴の落下音が、僕のサウンドディテクタを心地よく刺激する。
今日は朝から雨が降っていた。空一面が灰の絵の具を塗りつけた曇天。研究室では明確な始業時刻が決まっていないということもあり、こんな日は皆、大なり小なり来るのが遅い。
しかしながら、今年になってその法則には例外が生じた。
白坂だ。彼女はいつも、決まって午前八時二十分に研究室の扉を開くのである。午前に講義がある日でも、きっちり一度、その時刻にここへ顔を出し、改めて講義室へと出向いていく。その正確性たるや、機械として僕の同類であることを疑いたくなるほどのもの。真面目、実直、誠実を絵に描いたような彼女のタイムスケジュールは綿密、そして厳格だ。
ただ、それゆえにか。およそ彼女とは正反対の行動をとる沢に、最近どうも振り回されているご様子。今日は、朝から一緒に練習実験を進める予定だったのだろう。しかし待てど暮らせどいっこうに現れない沢に、白坂はひたすらやきもきしている。机で参考書を読みながら、何度も何度もスマホの時計ををちらちら見て、やがて一時間経ち二時間経ち……いや、そもそもそんなにスマホを見るなら、電話でもなんでもすればいいのに。もしや二人は、未だに互いの連絡先も知らないのだろうか。いくら仲が良くなくても、同期としてさすがにそれはどうかと思う。もうほんと、割り切ってビジネスパートナーとして見ても、最低限を下回るレベルだ。
白坂はあまり感情を表に出す方ではないが、それでも今は、104号室に一人でいるからだろう、何度目かの溜息が僕には聞こえた。表情も、心なしか今日の空模様のように沈んで見える。
僕は開いた扉の隙間から、彼女の近くへと歩み寄った。彼女はすぐに僕に気づく。
僕は彼女の気を紛らわせようと、くにゃくにゃと面白げな軌跡を描いてみせる。
そんな時間が数分流れ、無言のまま雨の音だけを、ただただ聞いた。
「あいつ……全然、来ないわ」
白坂が小さな呟きを零す中、僕は変わらず軌跡を描く。アステロイドの次はリサージュ。
すると唐突に、彼女が僕のボディに触れた。
「ねぇ、あなた。あいつが今どこにいるのか、知らないかしら」
そうして発せられたその言葉が、僕に向けられたものであると、僕はすぐには気づけなかった。けれど、この場合の『あなた』は、間違いなく僕のことだ。周囲に彼女の声を聞く人間はいない。僕の記憶する限り、彼女が初めて僕に話した瞬間だった。
「私、あいつの卒業なんてどうでもいいけど……でも練習実験、二人でやるよう言われたし」
そう話す彼女の声は、普段の凛としたそれよりも、少しだけ穏やかで大人しい。
「って……だからってあなたが知るわけないか。ああ、なんか、私も結構毒されてるわね。ここの人たちはみんな、あまりにも自然に、あなたに話しかけるから」
毒されている、か。確かに、僕がもし自意識を持たない単なる機械で、にもかかわらず研究室の皆が絶えず話しかけているのだとしたら、そして、それにより白坂が機械に話しかけることを当たり前のように思い込んでしまったとしたら、それは洗脳か集団催眠の類かもしれない。
でも白坂、大丈夫だ。安心していい。なぜなら僕には心がある。クオリアがある。僕はメアリーの知らなかったことを知っている。だから白坂が僕に話しかけるのは、この世界ではとても自然な行為なのだ。たとえその真実を、誰も知り得なかったとしても。
そうだ。じゃあ、良い機会だから、ここらでそれが正しいことを証明しようじゃないか。
僕はピコンと高めの音を一つ出し、研究室のアクセスポイントから大学のローカルネットワークに接続した。そこには各学部やカリキュラムの説明といったパブリックな情報から、所属する学生や教員の個人情報というコンフィデンシャルなデータまで、様々なものが蓄えられている。このネットワークには高度なセキュリティが設けられているが、それより何倍も高度な機械生命体である僕からすれば、突破など朝飯前のお茶の子さいさい。
目当ては学内の監視カメラの記録。それをリアルタイムで検索すれば、沢の居場所がわかる。
数秒後、僕は白坂の周りをきっかり二周すると、一度だけ振り返ってゆっくりと廊下へ出た。
白坂は怪訝な顔を見せる。
「……何?」
黙ってついてくるといい。
僕が進み始めると、やや遅れて白坂も席を立った。
向かったのは研究室の裏口だ。そこは隣棟との渡り廊下に繋がっている。無駄に洒落た全面ガラス張りの造りで、ゆえに屋外が広く見渡せるのだ。
視界を泳がせれば、遠く見える大きな通りに、傘も差さず歩く沢の背中を見つける。
「あっ……」
白坂も沢に気づいたようだ。沢は四、五人の集団で歩いている。一緒にいるのはたぶんサークルの仲間だろう。そのときハッと白坂が僕を振り向き、言った。
「……偶然?」
まあ、そういうことにしておいてくれると助かる。
白坂はしばらくじっと僕を見つめていたが、やがて研究室内に戻ると、可愛らしい桜色の傘を手に戻ってくる。沢のところへ向かうのだろう。
ならば僕はここまでだ。一応は防水設計だが、それでも雨の中は好きではない。自慢のボディが泥で汚れるのは、御免被る。僕はそそくさと閉じる裏口に滑り込む。
駆け出そうとする白坂は、しかしその瞬間、思い出したかのようにまた振り返った。
「えっと……ありがとう、シータ」
最初のコメントを投稿しよう!