1人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章 学際:パステルサンセット 1
五月初旬の月曜日。今日は朝から、週始めのミーティングで皆がお茶部屋に集まっていた。この時間だけは各々が可能な限り都合をつけ、顔を合わせて話し合うことになっている。今日の参加は伏屋に梅田、それから樋尾、橋原、河村、白坂、沢。
伏屋の進行でつつがなく予定の確認が行われ、個人の意見が吸い上げられていく。実験の進行状況、出張予定、講義時間の変更確認、さらに個人都合での休みの申請もこの場で行う。一人やグループ内の数人で動くことが多い研究室というコミュニティでは、こういった定期的なスケジュールの共有が不可欠なのだ。
「とりあえず、全員の予定の確認はできましたね。何か言い忘れたことのある人はいますか?」
伏屋の言葉に、その場の皆は緩やかに首を横に振った。
「はい。あと、ここにいないのは藤林さんですが、メールで連絡を受けているので、何かあれば僕に言ってください。まあ、直接連絡をとってもらってもいいですけどね」
そうして一通りの確認が終わる。
「では、次に移りましょう」
ミーティングの次に行われるは、論文紹介というものだ。
これは、毎週一人が当番制で、個人の研究に関連する最新の論文を熟読し、その内容をメンバーに紹介するというもの――つまるところが研鑽会だ。今年度は四月の下旬から始まって、既に伏屋と梅田が紹介した。さすがに教員の論文紹介ともなれば内容もわかりやすく充実したもので、それを経て今日からは学生が紹介をしていくというのだから、なかなか緊張ものである。しかし学生にとってはこれもまた、研究活動の大事な単位であるから避けては通れない。
映えあるトップバッターを任されたのは、なんと沢。実は先日、学生の間だけで妙なくじ引きが行われていたのだが、それがこの順番を決めるためのものだったのだろう。どうせ全員やるのだけれど、大変なことはつい先送りにしたくなるのが人間の性というもの。そんな中、新人でありながら豪快に『1』のくじを引き当てた沢の強運には、素直に敬意を示したい。
自信がないのか、沢は渋々とパソコンを立ち上げて話し始める。案の定、たびたび入る伏屋や梅田からの質問や駄目出しに、少しずつ沢の顔色が青くなっていくのがわかった。
まあしかし、それも当然と言えば当然だろう。研究室に来てまだ一ヶ月足らず。与えられた研究テーマについての理解も浅ければ、難解である学術的な単語の踊る英語の論文を正確に読み取ることも難しい。周りもその点は十分わかっていると思う。これも勉強、頑張れ少年。
やがて陽が高くなって昼も近づき、沢の声がいよいよ憔悴してきたところで、ようやく紹介が終わりを迎える。伏屋が「じゃあ、今日はこの辺で」と切りをつけて立ち上がった。
それと、ほとんど同時の出来事だった。突然に部屋の扉が開け放たれたのは。
皆の注目が一斉に集まるそこに立っていたのは、白のスリーピーススーツにシルクハットを被り、ストライプネクタイにステッキを携えた、まるで英国紳士のような初老の男性であった。
「き、教授! 蓮川教授!」
いち早く声を上げたのは伏屋だった。
「今日は、アテネの学会に出席されているはずでは?」
対する蓮川は、非常に落ち着き払った様子で答えた。
「ああ、学会の方は軽く失敬してきたよ」
「し、失敬ですって!? それはつまり、すっぽかしてきたってことですか!?」
「ははは。いやいや伏屋くん、言い方がよくないよ。ちゃんと顔は出した。運営側と知人には挨拶もしてきたよ。ちょっと早めに抜けただけさ」
「同じことでしょう! だって学会は、明日がメインで明後日まで続くはずです!」
「いいじゃあないか。今回、私は単なる招待客で、講演をしない。さしたる問題はないはずだ」
「いや、いやいや、大有りですよ……」
伏屋はテーブルに両手をついてがっくりとうなだれた。実は伏屋がこうして困り果てるのは、そう珍しい光景でもないのだが……まあ、今はそんなことはさておきだ。
僕はカメラを動かして、もう一度、皆と同じく入り口の方を見やる。その先におはしましたるは他でもない、我らが研究室のボス――蓮川晴義教授その人だ。彼は、皆が研究対象とする光なるものについて非常に多くの見識を持ち、各方面様々な地位の人々から権威と認められている。過去、学術雑誌に掲載された執筆論文は数知れず。テレビにも何度か出たことがあるようで、科学界におけるその功績は言わずもがな。したがって人脈も相応に凄まじいと聞く。
そのためか、プライベートとビジネスのどちらにおいても国内外問わずひっきりなしに声がかかり、いつも世界中を飛び回っているのである。彼が日本の地を踏んでいるのは、本当にごくわずかな時間しかないらしい。歳は確か四十代後半だが、その時代がかった英国紳士風ファッションと立派に生えた口髭のせいで年齢不詳と言わざるを得ない。彼にはイギリスに留学していた時期があるそうだが、身なりについてはその影響を受けているとか、いないとか。
「……それで、どうして突然、ご帰国なさったんですか?」
ひとしきりうなだれたのち、伏屋は再び蓮川に尋ねる。
すると蓮川は、後ろ手に持った白い包みをヒョイっと取り出した。
「アテネの市場で面白い味のフルーツを見つけてね。是非、皆にも食べてほしくなったんだ」
「フルーツって……そんな要件でわざわざ戻ってこられたんですか」
「だってほら、君。フルーツはナマモノだから、急がないと」
「クール便でもなんでも使ってください……」
うん、その通りだね。
「はっはっは。せっかくなら食べた皆の反応を見たいじゃないか。それに、研究室の長として、大事な新人の顔も見ておきたかったしね」
「はあ……まあ大方、そんなところだろうとは思いましたよ。でも別に、誰も逃げやしないんですから、無理に一日二日を急く必要はなかったと思いますけどね」
伏屋は溜息をつきながら、その場で沢と白坂に手招きをした。
それに応じた二人が蓮川の前で横に並ぶ。
「彼らが、今年うちに配属された新人の、沢くんと白坂さんです」
「えっと、こんちわっす」
「よろしくお願いします」
伏屋の紹介に続き、沢、白坂が頭を下げて挨拶をする。二人とも、普段見慣れない格好の相手に多少なりとも驚いているようだ。しかし意外だったのは、一方の蓮川もそこで思案顔になったことだった。顎に手を添え、小さく呟く。
「白坂……」
「は、はい。白坂凛璃といいます」
名を呼ばれたと思ったのだろう、白坂は答えて、再度背筋を伸ばした。
蓮川ははっとして、すぐに帽子を取って恭しく一礼する。
「……そうか。よろしく。うん、なかなか知的なお嬢さんだね」
それから今度は、沢の方へと向き直る。
「そして君が沢くんだね。情熱的な髪色で、とても活発そうじゃないか」
沢に対しては蓮川の方から右手を差し出し、互いに力強い握手をした。
「二人とも、是非、頑張ってくれたまえ」
最後に、穏やかに微笑んでそう告げる。そうしてテーブルの方へと進み、携えていた白い包みを広げた。皆が覗き込もうとする中、蓮川はそこで、思い出したように言うのだった。
「ああ、そうだ。藤林くんが人を探していたんだが……沢くんの方が適任かな」
最初のコメントを投稿しよう!