第二章 学際:パステルサンセット 1

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○ ○ ○  どうやら彼女が来ているらしい。  蓮川は研究室の入り口からお茶部屋へ向かう途中で声をかけられ、伝言を頼まれたとのことだった。新人の子がいたら、“物置部屋”に来るように言ってもらえないか、と。 「藤林先輩? 物置部屋?」と、疑問符だらけの沢はよくわかっていない様子だったが、とりあえず指示に従ってお茶部屋を出る。  僕もついていくことにした。藤林夏子(ふじばやなつこ)が来ているのだ。これは何か起こるに違いない。  彼女はこの研究室所属のM2で、現在は卒業後に就く職を探している。そのため久しく顔を出していなかったが、早くも就職活動に区切りがついたのだろうか。それにしてはミーティングに出席するわけでもなく、物置部屋なんかでいったい何をしているのだろう。謎だ。  この研究室には、確かに物置部屋と呼ばれる場所がある。極端に区画の隅にあるデッドスペースで、ゆえに自然と古くなった装置や書籍を置くような部屋になったという。  沢が出向くと、そこには聞いていた通り藤林がいた。 「あの、こんちわ。藤林先輩っすか?」 「おー! よく来たよく来た!」  声に振り返った藤林は、沢を見るなり両手を広げて大袈裟に抱きついた。 「うわっ! 藤林先輩!?」 「なんだなんだー。堅いなー、呼び方がー。てか髪、赤っ! すっごい!」 「え、いや、ちょっ! いきなりなんすか!」  うろたえる沢は両手で藤林の肩を引き離そうとする一方で、随分とその顔を赤くしていた。まあ、それも当然といえば当然だろう。藤林は女性としてかなり豊満なボディを持っている。しかも本人の性格と同様、服装も豪快で大胆なものだから、余計に意識せざるを得ないのだ。  今、五月初めの陽気にいち早く乗っかった彼女が纏うのは、肩先が少し隠れるだけの袖の短いオレンジのトップス。これでもかというほど太腿を晒した白のホットパンツ。そこにチェックシャツの腰巻きで差し色をした、随分と軽やかな格好だ。スッキリと切り揃えられた前下がりのショートボブも、そのラフなスタイルによく合っている。 「あたしは藤林夏子。夏子でいいよ!」 「は、はあ……何か、すげー、トートツっすね」 「唐突で何が悪い!」 「まあ、悪くはないですけど……じゃあ、夏子先輩で」 「えー! いや、ま……最初だし、とりあえずはそれでいっか。ちょっとずつ仲良くなっていって、最終目標はなっちゃんだぞ!」 「いや、なっちゃんはさすがに……」  藤林は、基本的に人との距離感がかなり近い。常日頃からのテンションの高さも合間って、対人コミュニケーションに臆するところがほとんどないのだ。その姿を見て、僕は彼女に初めて会ったときのことを思い出す。あのときはいきなり飛びつかれて持ち上げられ、上から下から散々眺め回されたものだった。僕としては、実に恥ずかしい記憶である。 「それで、君の名前は?」 「えっと、沢です。沢叶夜」 「そうか! じゃあ、私の最終目標は叶ちゃんだな! とりあえず今日からは沢っちで、来週からはさーわん、一ヶ月経ったら叶夜くんで、半年経ったら叶ちゃんだ!」 「すっげぇ計画的っすね」  しかも結構なタイトスケジュール。だがやはり驚くなかれ、これが彼女の通常運転である。 「それと、新人は、君の他にもう一人いるんだよね?」 「ああ、いますよ。白坂凛璃っていう」  何気なく返った沢のその答えに、藤林は瞬間、目を輝かせる。 「へぇ! 白百合ちゃんじゃないか!」 「先輩、知ってるんすか?」 「もちろんだよ! 有名だもん! そーか白百合ちゃんかー。いいねいいね、胸が踊るよ!」  興奮からか、飛び跳ねる藤林の胸部も実際に踊っている。ただ、沢にとってそれはやや目の毒だったのかもしれない。さりげなく、しかし確実に視線を逸らしていた。 「えっと……呼んできた方がよかったっすか?」  沢が申し出る。けれど藤林は、そこでようやく本題を思い出したらしかった。踵を返し、物置部屋の扉に手をかける。 「いや、まあ今日はいいよ。これからやるのは力仕事だからね。必要なのは男手だ」 「力仕事って、どんな?」 「闇の部屋の探索と荷物運び」 「やみ……え?」  思わぬ言葉に驚いたのか、沢は聞き返さずにはいられなかったようだ。 「キッシシシ。ま、とりあえず入って。ほら」  妙な笑い方とともに藤林は扉を開き、まるで招き入れるようにその先を指し示す。  若干戸惑いながらも、沢は示された部屋の中へと向かった。  直後、藤林が今度は僕の方をちらりと見る。 「お、どうよ、シータも来るー?」  ……望むところだ。  藤林の引き上がった口の端を見ながら、僕は沢のあとに続いた。 「暗っ!」  扉が閉められると、確かにそこは沢の言葉通り、今が昼間とは思えないほどに暗かった。窓はないのか、あるいはあったとしても物で塞がれているのか、ほとんど完全な暗闇だ。そして僕は、この部屋が研究室の学生間だけでなんと呼ばれているのかを、今更のように思い出した。 「ここは通称“闇の部屋”だよ。長年、不要になった物や時々しか使わない物を保管しておく場所として認識されている。ただ、卒業していった先輩が言っていたんだけど、ここにはいくらでも物が入るんだって。そして私も、これまで三年間、それなりに大きな物やたくさんの物が運び込まれたところを見てきたけど、やっぱり全部、問題なく収まってきた」 「へぇ。広くていいじゃないっすか」 「でも、それがおかしいんだよねー。元々はデッドスペースだから物置になったはずなのに、実際に中に入ってみると、外観から想定できるよりも明らかに空間が広いんだよ。今ではもう、物理的に収まり切らないはずの物が、この部屋には収まっていると言われてるね」 「え」 「物を運び入れるたびに広がっているとも言われてるし、それに比例してこの部屋はどんどん暗くなっているらしい。だから、なんでも飲み込む真っ暗な部屋。闇の部屋だよ」 「いやいや、そんなことがあるわけ……」 「ないって言えたらよかったんだけどねー。というわけで、はい、これ。ハンドライト」  暗闇の中、沢は渡されたライトを手探りで点灯させた。彼の手元から伸びる光の帯が、まるで迷路のように入り組んだ部屋の奥をぼんやりと照らし出す。それに倣って藤林も持参のものに、僕も装備している自前のものに光を灯した。 「お、シータのライトは明るいねー!」  えへん。これは僕が安全に夜道を歩くために装備された、高輝度大口径LEDライトだ。 「それから、あとはこれね」  ライトに続き、藤林がまた一つ、沢に手渡す。 「何すか、これ……リボン?」 「そ。一定距離を進むごとに、これを近くの物に結んでおくの。帰り道に迷わないためにね」 「樹海の歩き方みたいっすね……」  沢がげんなりとそう零す。目印をつけながら進むとは、これはもう、かなり本格的な探索だ。 「まあ、あながち間違ってないよね。もう結構前だけど、ふらっと入って出てこられなくなった人もいたからさー」 「……ちなみにその人はどうなったんですか?」 「みんなで大捜索の末に、三日くらい経って発見されたよー。いやほんと、あれは奇跡だね」  ひぇ。僕は思わず数センチ後退した。どうやら沢の方も、すっかり絶句しているようだ。 「ま、そういうわけだから、進むときは慎重にねー。基本は一緒に動くけど、でも、万が一ってこともあるからねー。命は一つしかないからねー」  もしかしたら僕は、とんでもないところに呼ばれてしまったのかもしれない。嬉々として奥へ進んでいく藤林の背中を見ながらそう思ったとき、隣からもちょうど沢の声が聞こえてくる。 「……笑えない冗談はお呼びじゃねぇよ。なあ、シータ?」  沢の言うことにしては珍しい。僕としても全力で同意だ。
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