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学際:パステルサンセット 2
日に日に大学は色めき立っていた。時折、気紛れのように学内カメラの記録を見るにつけ、実際に窓から外界を見下ろすにつけ、その変貌は明らかだった。この一、二週間で無骨な建物はきらびやかに、殺風景な通りや広場は華々しく飾られている。それらはまさしく、全学生の胸の内に蓄えられた、きたる学祭への期待そのものだろう。
これは僕も、本番に備えて直に野外を回る装備を検討すべきかもしれない。河村に足回りの改良を進言しておこう。だってお祭りは是非、自分の足で楽しみたいもの。
しかしそんな外の世界とは対照的に、我が研究室は今日も通常運転だ。まあ、平日なのだからそれも当然。実験室では、沢と白坂が頻りにやりとりを交わしていた。
「せっかく別々のグループになったのに、結局一緒に実験するんだよなぁ」
「文句言わないで。私だって同じ気持ちよ」
ついこの間のこと。二人はこの研究室の各グループに正式に所属することとなった。沢は梅田の、白坂は伏屋のグループに。しかし、所詮は研究室の中の話。別のグループといっても、一緒に実験をするのは珍しくもなんともない。特に二人は、両グループの橋架けのようなテーマを持っているため、どうしてもともに動くことが多いのだ。
そんな二人は相変わらず、一緒に実験をすることに好意的ではないようだった。
「俺、どうせ一緒に実験するなら、別の人がいいんだけどなぁ」
「よく梅田先生とやってるじゃない」
「お前な、あれはあれで大変なんだぞ。一緒にやるなら、断然、橋原先輩みたいな人だろ」
「お前じゃないって言ってるじゃない。それに、橋原先輩は私たち伏屋グループの方でしょ。私とあなたみたいにテーマが近いわけでもない。一緒に実験する機会なんてないと思うけど」
「そんなのわかんないだろ。あるとき、実験中の橋原先輩のところに颯爽と俺が現れて、お手伝いして差し上げるっていう」
「妄言を吐いてる暇があったら手を動かして」
身振り手振りを交えて語る沢に向かって、白坂はぴしゃりと冷静に言い放った。その間も、白坂の手は淀みなく作業をこなしている。
いい感じの妄想に水を差された沢は、密かに「ちっ」と舌打ちを漏らしながら実験台に戻る。
「つってもさ。こっちのグループで選んだら残りは河村先輩だろ。あの人、昼間いないじゃん?」
「あなたが誘えば、そのときくらいは昼に出てくるんじゃないの。仲、良いんでしょう」
「え、俺と河村先輩って仲良いのか? 普通じゃね?」
「……知らないわよ」
河村は基本的に、理論や計算の側面から研究をしている。どちらかと言えばそういった理由から、彼が誰かとともに実験をする機会は少ないかもしれない。
ちなみに二人からの言及がなかった樋尾については、梅田グループでも伏屋グループでもなく、蓮川教授の直属となっている。無論、蓮川はほとんど不在なので、彼は完全に一人で動く。
それからしばらく二人は言葉を交わさず、黙々と工具やネジの鳴る金属音だけを響かせた。その様子を見ながら僕は実験室の中を動き回り、時折二人の足を小突くなどしてちょっかいをかける。すると白坂は「しょうがないわね」とでも言うように少しだけ微笑み、沢の目を盗んで僕の上にいくつかのネジを並べて相手をしてくれた。一方、沢は足先を器用に上下させ、僕の動きに合わせてリズムを刻んだ。
ややあって、二人の作業台から離れたところにある扉が開く。現れたのは伏屋だった。
それとほぼ同時、白坂が沢に向かって言った。
「ねぇちょっと。あなたもしかして、この分光器の構成、弄ったりした?」
白坂が、手に持った精密ドライバーの先で、機器の一部を指し示す。
沢は横から首を伸ばしてその部位に視線を落とすと、なんでもないことのように答えた。
「ああ、そういや昨日、ちょっと中身変えたかも」
「何、勝手なことしてるのよ……」
聞いて、白坂は額に手を当てうなだれる。
分光器とは、光をその性質――周波数や偏光方向などによって分けて計測する機器だ。薄膜フィルタやミラーなど精密部品が使われるため構造的に繊細で、外的要因に対して敏感でもある。確かに、素人が考えなしに弄れるようなものではない。
「この部分は先週、実験を始める段階で伏屋先生に調整してもらったじゃない。私たちが触っていいところじゃないのよ。壊れちゃったらどうするの」
「ちゃんと説明書見ながらやったさ。それに、梅田先生がいつも言ってるぜ。『研究は冒険だ!』って。思い付いたことがあったらやってみたいじゃん。楽しそうだし」
「あなたの冒険に私を巻き込まないでよ……。だいいち、こんなの意味のないリスクじゃない。なんでわざわざ、変える必要のないところを変えたのよ」
白坂が溜息混じりに尋ねる。すると沢は白坂の手からドライバーをひょいと取り上げ、さきほどと同じように先端で機器を指して説明した。
「だってさ。前はここ、機器に光が入ってからディテクタまで、かなり複雑なルートを通っていたんだ。でも、もっと簡単でいいと思って。その方が場所もとらないし、処理も早い」
「そ、そうかもしれないけど……だからってあなた、無断で弄ることに抵抗はないわけ? この機器、一応こっちのグループの管轄なんだけど」
「別に悪戯してるわけじゃなし、効率化してるんだからいいだろ。れっきとした改良だって」
「うん、効率化はいいことですね」
「うわっ!?」
実は、沢と白坂が機器を覗き込んでいる間、扉から入ってきた伏屋が様子を伺おうと近くに来ていた。二人が話している内容についても、途中から耳に入っていただろう。傍で待機していた僕は伏屋の接近をちゃんとわかっていた。しかし二人は、気づいていなかったようだ。
「ふ、伏屋先生!」
「なんだ居たんすか! 居たなら居たって言ってくださいよ!」
「あはは……結構普通に近づいたんですが……あれ、僕ってそんなに影、薄いですか?」
白坂と沢が二人揃って抗議すると、伏屋は苦笑いで自虐を吐いた。けれど伏屋はすぐに気を取り直し、二人の間に立つ。そうして件の機器を一通り眺めると、今度は優しい笑みを見せた。
「なるほど。これを沢くんが?」
向けられた視線に、沢はたじろぎながら答える。
「えっと……まあ、はい」
「そうですか。確かにこれは効率化ですね。素晴らしい改良です」
しかし沢は、伏屋の言葉をやや遅れて理解したのか、徐々に笑顔になって声を張った。
「マジっすか! やっぱ!? そうですよね! ここ、なんでか知らないけど、すごくぐるぐるしたルートになってて」
「そうですね。こういう光の通る道筋のことを、光路と呼びます。今回の実験においては、回り道をするより、沢くんの組み立てた光路の方がシンプルでいいですね」
「やっり! あれ……でもじゃあ、なんで元はあんな……えっと、光路? になってたんすか? 先生は、知っててあのままにしたんですよね?」
「まあ、この分光器は割と汎用型でして、今後の実験に使う場合を考えて、調整できる部分を残しておいただけです。繰り返しますが、この実験では必要ない部分。よく気がつきましたね」
伏屋の称賛に、沢は随分と気を良くしたようだった。さきほどよりも明らかに張り切って、沢が実験台に向かい直る。こうして見ていると、伏屋は誉めて伸ばすのがとても上手だ。
「ですが、沢くん。白坂さんの言っていたことも、とても大事なことで、これから装置を変えるときは、教員の誰かに必ず一声かけるようにしましょうね」
「はーい」
沢の返事は、本当にわかっているのか疑問ではあったが、元気だけはとにかくいい。
その後も伏屋は二人の実験に立ち会い、細かな部分も含めて和やかに指導をした。お調子者の沢は始終テンションが高いまま、騒がしいことこの上なかった。もちろん、その相手をしたのは全て伏屋だ。結局、実験が一段落し「俺、用事あるんで一旦抜けまーす」と言って消えるまで、ほとんど途切れることなく喋っていたように思う。
しかしその一方で、白坂はまったくの逆だった。伏屋が来てから、彼女はずっと不機嫌そうな顔をしているばかりで、作業はするものの一切口を開かなかったのだ。原因は、伏屋にあるわけではない。ほぼ間違いなく沢の方だろう。なぜなら彼が実験室を去るときも、白坂はその背中を、目の端で睨んでいたくらいだから。
まあそれでも、沢はまったく気にしない。この二人は相変わらず……沢が喋れば白坂は黙る。白坂が見れば沢は無視。二人の周波数は、まるっきり合っていないように思えた。
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