学際:パステルサンセット 2

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○ ○ ○  実験室は、うってかわって静かになった。まあ沢がいなくなったのだからそれも頷ける。再び訪れた小さな金属音だけの空間は、僕の移動に伴うモーター音をいつもよりも大きく感じさせる。僕は二人の邪魔にならないよう、部屋の隅で待機モードに移行した。 「白坂さん」  作業中、伏屋がふと、口を開く。 「はい」  すぐに白坂は、手元に落とした視線を上げる。 「その光路を開放するには、先にこっちを閉じてからの方がいいですね」 「え……」  白坂は伏屋の指が指し示す部位を見、次いで再び、自分の手元を確かめる。 「あ……そうですね」  伏屋のアドバイスの意図に気づいたようだ。素早く指示通りに機器を操作する。その白く細い指先は、ぎこちないながらもとても丁寧に動いた。  隣で伏屋が小さく頷くのがわかる。  けれど同時に、僕のカメラは白坂の表情もとらえていた。白坂は、一見してそうとわからないほど、わずかだけ眉を下げ、伏屋に指摘された部位を今も見つめている。あれはきっと『なんで言われる前に自分で気づけなかったんだろう』と考えている顔だ。しばらく白坂がそうしていると、再び伏屋から声がかかった。 「白坂さん」 「は、はい」  白坂はまた、ピンと背を張って振り返る。 「ここでの研究は楽しいですか?」 「え?」  けれども伏屋の次なる問いかけは、白坂にはとても意外なものだったらしい。一瞬、きょとんとして、何を答えたらよいのかわからないという顔になった。  それでも白坂なりに考えを巡らせたのか、沈黙からややあって、ゆっくりと口を開いた。 「えっと……楽しいかどうかは、まだわかりません。でも、自分でやるって決めたことだし、頑張りたいとは思っています」 「白坂さんは努力家ですね」  伏屋が微笑む。しかし白坂はやんわりと首を横に振った。 「そんなことないです。私、まだ全然知識ないし……実験も、あまり上手じゃなくて」 「それは当たり前のことですよ。今年入ったばかりなんですからね。それに実験に関して言えば、白坂さんは十分上手な方です。もちろんまだ、『新人にしては』と付けざるを得ませんが」 「でも今も、手順を一つ忘れて……」 「慣れればミスは減っていきます。一人の人間が、常に全てを見通すことはできません。今のようにフォローし合えばよいのです。ですから、研究をする上で自分と違う視点を持っている仲間というのは、とても大事なものなんですよ」  そこまで聞くと、白坂は伏屋を覗き込むように、俯いていた顔を起こす。 「あいつと……沢叶夜と、仲良くしろって意味ですか?」 「ああ、そう聞こえてしまいましたか。もちろん、そういう意図も、ないではないですが」  伏屋は申し訳なさそうに頭をかく。そしてわずかに皺の刻まれ始めた目元を綻ばせて言った。 「ただ純粋に、人と一緒に実験するのは、楽しいですねって意味ですよ」 「楽しい……ですか」 「そうです。沢くんじゃないですが、やっぱり研究は、楽しくないとね」  この壮年の穏やかな研究者が、まるで少年のような笑顔で沢と似たようなことを言ったのは、確かに僕としても意外だった。だから白坂としても、少なからず驚きを感じたことだろう。けれど伏屋が言うと、それも正しい気がするから不思議だ。  ちょうどそのときだ。静かになった実験室に、壁の向こうから大きな声が響いてきた。 「だからグラフのデザインがダセェんだよ! やり直しだ!」  聞き違えすら疑わないほどの大きな声。105号室から廊下を抜けてここまで届くそれは梅田のものだ。となれば、次に返るのは、だいたい想像がつく。 「はぁ!? グラフがダサいから報告書再提出って意味不明なんだけど!?」  沢の驚きと怒りの混ざった表情が、目に浮かぶような抗議だった。 「研究は芸術だ! 報告資料は愛をもって作れ! 大事なのは何より愛だ!」 「ふざけんな! そんなわけわからん理由で俺の努力を無下にするのか!」 「実際に報告内容がわからんのだから仕方ないだろう!」 「わかるわ! ちゃんと見ればわかるわ! 二秒でわからんって言うんじゃねぇよ! あとその性格で愛はマジきつい!」 「んだと! おいちょっとツラ貸せ貴様!」  罵倒の応酬に乗ってバンバンと机か何か叩くような音もする。随分と血の気の多いやりとりだ。やがて乱暴に扉を開ける音がすると、一段階クリアになった沢の捨て台詞がまた聞こえる。 「絶対嫌だね! 俺、今から用事あるし!」 「用事って何だ用事って! どうせバイトだろ! いい加減に……」 「夏子先輩のパシリです!!」 「ああ!?」  沢を追いかけてきたのだろう、梅田の声も先ほどより近くに聞こえるが、そこで虚を突かれたように押し黙る。 「よし……それやり切ってから報告書な。いいか、ちゃんと戻ってこいよ」  そして最後の梅田の落ち着き払った棒読みは、露骨に藤林を意識したものであった。  梅田は藤林が少し苦手。沢はその事実をどこかで知ったのかもしれない。藤林の威光を借り、上手く事が運んでニヤッと口の端で笑った……かどうかまではさすがに僕にもわからないが、それから沢の駆けていく足音を最後に騒動は収まった。  実験室の白坂と伏屋は、いつの間にか固まってそれらに耳を傾けていた。そうしてなんとも絶妙な雰囲気の沈黙が流れ、その末に白坂が戸惑いながら問う。 「……楽しいっていうのは、ああいう感じのこと……なんでしょうか」  すると伏屋は苦笑を漏らす。 「あはは……どうでしょう。楽しいにも、色んな形がありそうですね」  その後の二人の実験には、さきほどよりも和やかな様子が感じられた。他愛のない会話が、所々で混じるようになったのだ。 「沢くんの用事というのは、藤林さんのお手伝いのことだったんですね」 「みたいですね。そういえば前も、手伝わされてたまらないって言っていました」  確かにここ最近、沢はちょくちょく研究室を抜けては、荷物を持って学内に繰り出している。藤林はまた就活で顔を見せなくなってしまったが、沢が手伝いを継続しているあたり、彼女とよく連絡を取っているのかもしれない。早くも彼女の子分といった感じじゃあないか。 「はは。さっそく藤林さんに巻き込まれましたか。白坂さんも、何か言われているんですか?」  伏屋がそう尋ねると、しかし白坂は少しばかり気落ちした様子で答える。 「いえ、私は特に何も……。私、藤林先輩とほとんど話したことがないから……向こうとしても頼みにくいのかな、って」 「んー、そうですかね。藤林さんはあまりそういうことを気にする人ではないので、きっとそのうち、何かあると思います。これは注意が必要ですね」 「注意って……もしかして伏屋先生も、巻き込まれた経験が?」 「ありますよ。いつだか最高のハンバーガーを自作すると言って生まれた試作品をみんなでひたすら食べる羽目になったり、助っ人で参加する鳥人間コンテストの理論計算をさせられたり、通学時間の短縮に私のデスクの後ろの窓からロープを使って出入りしていた時期もありました」 「え……」 「彼女は本当に、トンデモ人間ですからね」  とんでもない人間だ。むしろ人間か?  いや、それはともかく。声の調子や仕草で白坂を気遣い、笑顔を引き出しながら実験をリードする伏屋はさすがといったところだろう。まあ、肩肘張っては逆にミスも増えるというものだ。白坂にはもう少し、気楽さも必要だろうと思う。  さてさて、ともあれこの調子ならもう、特に心配はなさそうだ。僕はゆっくりと扉の方へ移動し、その隙間からお茶部屋のホームスペースへと戻った。
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