学際:パステルサンセット 2

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○ ○ ○  夕刻。陽の落ち切った藍色の空の下、沢が研究室に戻ってきた。  一息つきながら扉を開けて入ったところで、駆け出していく河村とすれ違う。その際、互いの肩がぶつかりそうになると、河村が大仰に身をよじらせて回避した。 「おっとおっと!」  あまりの豪快な避けように、若干ぼーっとしていた沢も思わず驚いて河村を見る。 「おわっ! 河村先輩じゃないっすか。ちっす」  普段は気怠げな河村にしてはかなり軽快な身のこなし。その理由は、何やら脇に抱えた大きな箱にありそうだ。 「おー、沢。ごめんね、ちょっと急いでて」 「珍しいっすね。何かあったんすか?」 「いや、僕今日、オフでさ。これから出かけるの。研究室には荷物取りに来ただけなんだよね」  回避の衝撃を恐れてか、河村は答えながらもその場で箱を下ろして中身を確認し始めた。ゴソゴソと覗き込んでいる箱は銀色で、その独特の外観は、僕にも少し見覚えがある。 「え、オフって……でも今日、水曜っすよ? 平日も平日、週のド真ん中じゃないっすか。しかもこんな時間から出かけるって……」  沢の質問と同時に確認が終わったのか、河村は「ふぅ」と安心の表情を見せた。そして次の瞬間、溌剌な声とともに箱から何かを取り出した。黒く角ばった大きなそれを、顔の前まで持ち上げて構える。 「いやいや、だからいいんじゃーん! 余計な人がいなくってさ!」 「……それ、カメラすか?」  河村がパシャと一枚、返事とともに撮影する振りをする。かなりゴツめの一眼レフカメラで、見るからにこだわっていそうな装備がいくつも見受けられた。 「いえーす。沢も光の研究室にいるんだから、カメラのことくらい詳しくないとね。そうだ、今度じっくり教えてあげようか?」 「まあ、そっすね。時間のあるときにでも。てことは、これからそれで何かを撮りに?」 「そそ! 北陸の方にさ、花の綺麗なところがあんだよねー。この時期は藤! しかも白藤ね! それを前乗りして、明け方の人のいない時間を見計らって撮影すんの! さらに上手くいけば、日の出寸前の淡い光に照らされた白藤と、いい感じに薄れゆく星空のコラボレーション! くーっ! テンション上がるー! これは絶景壁紙コレクションの筆頭となること間違いなし!」 「……マジっすか。藤の写真? 明け方の? そのためにわざわざ今日、この時間から?」 「当たり前さ! 時期、天候、その他諸々、条件が揃う日なんて滅多に来ないんだよ。これを逃すわけにはいかない。僕のカメラは、この世の美しいものを撮るためにあるんだから! あっと、やば。そろそろ行かないと、僕の完璧なタイムスケジュールが。じゃーね!」  河村はポケットに入れたスマホで時刻を確認すると、忙しなく荷物を片付けて扉へ向かう。そうして手を振って研究室から出ていく彼の姿は、随分と輝いているように見えた。  一人ぽつんと残された沢は、呆気にとられて口を開けている。 「……すげ。別人みたいなテンションだな」 「お前も騒いでるときはあんな感じだぞ」  そのとき思いがけず沢の呟きに反応したのは、ちょうど廊下を通りかかってお茶部屋へと向かう梅田だった。 「先生。いやまあ、そうかもしれませんけど」  沢の足は自然と彼女のあとに続いて部屋へと進んでいく。そして、既に白衣を脱いで腰かけていた梅田の、テーブルを挟んだ向かいに座った。  僕もこっそり、滑り込むようにお茶部屋に入る。 「てか、河村先輩ってカメラが趣味だったんすね」 「ん、ああ。なんだ、知らなかったのか」  梅田は椅子に深く腰掛け、足を組んでくつろぐ。時間的に、仕事がひと区切りついたのか、集中力が切れたかのどちらかだろう。一旦口をつけたマグカップを置いて彼女は言った。 「この日のためにあいつ、最近は土日もずっと出席してたんだ」 「え、土日もっすか? 休みなしで?」 「まあ別に、今回が初めてじゃないけどな。前は確か、紅葉をバックに廃線を撮りに行ってたぞ。どうでもいいけど、無駄にロマンチストなんだよ。男のくせに」  梅田は「まったくもって理解できん」とでも言いたげに肩をすくめる。 「へ、へぇ……結構ガチなんすね」 「結構っつーか相当だ。ありゃホントに、ガチガチのカメラオタクだよ」  沢は素直に感心の意を示し、同時に何気なく、テーブルに置かれた菓子の包みに手を伸ばす。 「んで、そのガチなカメラを、この研究室に置いてるんすか?」 「らしいな。宝物だから、いつでも眺めたくなったときに眺められるようにって、例のエナジードリンクタワーの後ろに隠してあるんだ」 「はあ……なんでそんなところに?」 「さあな。けどお前も、間違ってもあれにだけは悪戯するなよ。壊しても簡単には弁償できない。想像よりも桁が一つ多い上に、値段に表れない手間までクソほどかかってる」  梅田も、決して嫌味でそう言っているわけではないようだった。梅田は色々と雑学にも詳しい。その梅田が言うのならば、本当にあのカメラは相当なものなのだろう。  それを聞き、沢は椅子の背にもたれ天井を仰ぎながら「そりゃあ、すっげーなぁ」と答えた。 「何か一つ、打ち込めるものを持ってるってのは、本当に大事なことっすよね」  沢の表情は見えなかったが、その声音は思いのほか真面目なものに、僕には思えた。多趣味な彼の矜持と響き合うところでもあったのだろうか。  けれども、それを境に沢が何も言わなくなったので、部屋には少しの沈黙が流れる。昔からホワイトボードにかけられている誰かの土産のドアベルが、微風に揺れて音を立てた。  ややあって梅田がマグカップの残りを喉の奥に落とし込むと、思い出したかのように尋ねた。 「それよりお前、藤林のパシリから今戻って来たのか?」 「そうっすよ。あ、遅いって言いたいんすか? でもあれ、結構大変なんですからね。大きな折りたたみの机で台作って装飾して、学祭当日まで邪魔にならないように近くの建物に隠しておくんです。だいたいの場合は、その建物に知り合いがいるから配慮してもらえるけど、そうじゃない場合は交渉から。そんなのが全部で十ヶ所近くもあるんですよ」 「……お前も大変だな。まあ、同情はしないが文句もないさ。ちゃんと戻ってきたことだしな。けどお前、毎週この時間はバイトじゃなかったか? 確か、バッティングセンターか何かの」  その質問に、沢は意外そうな、あるいは感心したような表情を見せる。 「へぇ。梅田先生、よく覚えてたっすね。俺、バイトたくさんやってんのに」  僕からしてもそれは同意見だった。沢は非常に多くのバイトを掛け持ちしているし、それでなくても、サークルなどの他の用事で姿を消すことだって少なくないのだ。  たとえば僕のような機械であるなら、そういった沢の複雑なウィークリールーチンを記憶していても不思議はないだろう。しかしそれを梅田が……素晴らしい記憶力と観察眼だと言える。  ただ、それも梅田にとっては普通のことらしい。適当に流してまた尋ねる。 「当然だ。お前だって一応、腐ってもグループメンバーだからな。で、行かなくていいのか?」  すると沢は、憎まれ口にも珍しく反応を見せず、あっさりとしたトーンで答えた。 「あれは辞めました。もう飽きちゃって」 「はあ? お前、こないだもそんなこと言って、いきなりバイト辞めてただろう」 「そうでしたっけ。まあ、そうかもしれません」 「いいのか、そんな無責任で」  基本的に、バイトを突然辞めるのは良くないことだ。言うまでもない。当日来ると思っていた人が急に来ないとなれば、店にも、店の人間にも迷惑がかかる。ひいては客にも同様だ。  もしかしたら梅田は、そんな当たり前のことを軽く諭そうとなんてしていたかもしれない。  だが、しかしながら。  結論から言えばそうなはらなかった。梅田の開きかけた口は、沢の最後の返答で再び閉じた。 「よくないっすね。でも、飽きちゃったら終わりですよ。いくら最初は楽しくっても、つまんなくなっちゃったら、もう全部終わりです」  沢の言葉は乾いていたのだ。いつもの楽しそうな沢の口から出たとは信じられないほど、その言葉は冷めていた。はたから聞いている分には、おそらくわからなかっただろう。でも沢の見せた絶妙な表情の変化と声の渇きは、その場にいた梅田と、そして僕に、奇妙な違和感を感じさせるに十分なものだった。そんな沢の姿は初めて見た。  その空気の変化に、沢自身は気づいているのか、いないのか。しかしそれ以上は続けることなく、パッと椅子から立ち上がった。部屋の扉に手をかけ「だーからわざわざ研究室まで戻ってきたんです。約束通り、報告資料直しますよーっと」などとおどけて出ていってしまう。  やや戸惑い気味の梅田と僕を、そのままお茶部屋に残して。
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