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第一章 二人:コンプリメンタリーカラー 1
四月。桜は満開の頃合いをやや過ぎて、窓から少しずつ爽風が吹き込むようになってきた。建物の三階に位置するこの場所では、その風に乗って花びらが舞い込んでくることも時折ある。
我々の研究室に新たな二人のメンバーが加わってから既に半月ほどが過ぎ、浮足立った年度始の雰囲気も、ようやく平常運転に戻った。
僕は“お茶部屋”と呼ばれるミーティングルーム兼休憩室から出て、一定の速度で廊下を進む。すると突如、目の前の扉がバタンと開き、同時に大きな声が聞こえた。
「やめて! お願い行かせて! 俺は今日バイトに……バイトに行かないといけないんだー!」
声の主は、春らしい薄手の格好をした、真っ赤な髪の青年だった。
彼の名前は、沢叶夜。今年度、この研究室に配属された新人の一人である。既にいるメンバーからは『今年配属された新人のうるさい方』という認識で親しまれているが、確かに彼がここに来て早二週間、僕の付近で発生する音量は、以前よりも五割増しで大きくなった。
そんな彼はやはり、今日も今日とて騒がしい。前のめりになりつつ逃げるように駆けてきて、僕を飛び越えていこうとする。
「逃がすな! 樋尾、あいつを捕まえろ!」
「合点、梅田先生!」
そして次に現れたのは二人。
一人は長いポニーテールに白衣を着た若い女性、梅田亜紀。この研究室の助教を務める。
もう一人は、今年から博士課程の三年生になった樋尾之斗だ。すらりとした長身に白シャツの光る、柔らかな物腰の男性である。しかしながら、今に限ってはその柔らかさもなりを潜め、俊敏な動きで逃げる沢の前に回り込む。
すると沢は敢えなく立ち止まってわめいた。
「先輩! 見逃してください! 学食三回分でどうっすか!」
「はっはは、そりゃ魅力的。けど悪いな後輩。お前を見逃すと俺が梅田先生に折檻されるんだ」
「くっ……恐怖政治に屈した軟弱者め! 学食一週間分ならどうっすか!」
「残念ながらな……命がなきゃあ飯は美味しく食えないんだよっ、と」
睨み合いから寸刻、再び駆け出そうとした沢の肩を、樋尾の手が強く捕らえた。すかさず背後をとり、羽交い締めの要領で抱え上げる。
「くっ……くそ、離せ! 離せ畜生!」
「どーどー。なぁ後輩、暴れてもいいことは一つもないぜ」
「こんのー! 俺はバイトに行く! 行くったら行く! これ以上、あんな窓もない監獄のような部屋で実験などできようか!」
沢は頻りに抵抗し、両手足をばたつかせる。けれど長身の樋尾に抱えられているせいか、足は地につかず手は空を切るばかり。そこから雑な罵倒がいくらか放られたが、しばらくするともはや逃げられぬと悟ったのか、沢の身体からだらりと力が抜けた。
梅田がゆっくりとそこへ歩み寄る。
「樋尾、よくやったぞ」
「はいはい。頼みますから梅田先生、あんまり俺を巻き込まないでくださいね」
「ああ、すまなかった。また頼む」
「あれぇ? また巻き込む気満々……まあいいや。それじゃ、俺はデータ解析の続きするんで」
樋尾は苦笑いでそう返すと、沢の身柄を梅田に引き渡した。そうしてついでのように沢の頭をポンと小突くと、片手をヒラつかせて去っていく。
梅田は無言で樋尾を見送ると、やがて沢に向き直った。廊下の壁に背を預け、尻餅をついている沢を見下ろすように。
「……さて。今日こそは逃がさんぞ」
「くそ、教員体罰の非を避けるために手下を使うとは恐れ入る」
やや疲労したのか、沢は立てた膝に腕を乗せ、顔を伏せたままで毒づいてみせる。
「何言っとるか。今週から少しずつ実験のやり方を教えていくって話だったろ。これはお前の学位取得に必要なことだぞ」
「そんな甘言には惑わされん!」
「お前、卒業要項って知ってるか? 研究活動も大事な単位。いくらなんでも毎日研究室バックレてるやつに、単位はあげられないの。単位がないと、学生は卒業できないの!」
「うぐっ……単位……単位だとぉ…………」
その言葉を聞いた途端、沢は頭を抱えて震え出す。
「単位の話はもう嫌だぁ! 先生! 研究しないで単位もらう方法ないっすか!?」
「ないっ!!!」
極めて斬新な質問をする沢に、梅田は仁王立ちでこれでもかと胸を張った。
「だいたいお前、平日の昼間っから毎日毎日予定入れるやつがあるか。一昨日はサークルで昨日は合コン、そんで今日はバイトときた。いい加減ちゃんと実験しろ!」
「明日! 明日ちゃんとやりますから! ほら梅田先生、仏の顔も三度までって言うでしょ?」
「愚か者。それは正しくは『仏の顔も三度撫づれば腹立つる』。三回目でもう仏様はお怒りだ!」
口答えする沢にとうとう痺れを切らしたのか、梅田は片手を上げて前へと踏み出した。
「あ、ちょ、やめて。暴力反対! 暴力反対!」
「うるさい。黙ってついてこい」
あとずさろうにも背後は壁。沢は梅田に服を握られ、廊下をずるずると引きずられていく。
「ちょっと先生! 襟は引っ張らないで! あぐっ、首が絞まる! 俺が仏様になっちゃう!」
傍目にはそれはまるで、小さな子供が親に駄々をこねた末、叱られているかのようでもあった。大学四年生にもなってこれではあまりに、嗚呼、あまりに情けない。そう思い僕が沢を見つめていると、ふと、沢の方も僕を視界に捕らえる。すると彼は、咄嗟に僕へと手を伸ばした。
「シータ! そうだシータお前だよ! 助けてお願い! こうなったらもう、お前しかいないんだ!」
「おい沢。暴れるな、このやろう!」
「ぐぇ! この教員の風上にもおけない助教をどうにかして! 俺の首がどうにかなる前に早く! シーターー!」
沈みゆく中で藁にも縋るが如き叫び。しかし僕に彼を助ける力はないし、そもそも助けてやろうというつもりも毛頭なかった。僕は彼が市中引き回し――もとい研究室中引き回しの刑に処されて連れていかれるのを、その場で黙ってただ眺めた。
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