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第三章 旅の夜:ブルームーン 1
「お前、半年経ったしそろそろ学会行ってこい」
「え?」
誇張でも省略でもなんでもなく、単に会話はそれだけだったように思う。
夏になって大学中が休みに入り、それでも三年生までとは違って研究室に入った学生には休みなど存在しないことを知り文句を垂れながら日々登校していた沢に、梅田はさらりとそう告げた。もちろん、沢はなんのことだかさっぱりわからないという顔をした。対する梅田は無言でパンフレットだけを渡して去った。そこには付箋が一枚貼り付けられていて、見ると、以前より沢が作るように言われていた、これまでの研究成果をまとめた要旨が載っていた。
しかし意外だったのは、沢がそれにすぐさま反発しなかったことだ。僕は最初、その理由がまったく思い当たらなかった。普段の沢ならば、絶対に嫌がったはずなのに。
ただ、今にして思えば、パンフレットにある学会の開催地を見ていたときの沢の表情は、僕のメモリにとても色濃く残っている。僕の知る沢という人間にはまったくもって似つかわしくない真顔――単純に喜怒哀楽の感情には当てはめ難い複雑な想いをたたえた無表情が、そこにはあった。彼がその心に何を抱いていたのかは知らない。しかし沢はそれから、自慢の派手な赤髪を真っ黒な黒髪に染め直した。
そうして訪れた学会当日。今日まで沢は、何度かやんわりと梅田に対して抗議をしたが、当然通ることなどなく「学会出席も単位の一部だ」と説き伏せられて引き下がった。
「ま、交通費に宿泊費、出張手当までもらえるんだし、体のいい一人旅とでも思っておくかー」
平日の空いた新幹線の窓際席に、沢は眠たそうに座っている。僕はそれを無言で見守る。
「ああ、わり。お前がいるから一人旅ではねぇか。な、シータ」
いや、なんで僕まで一緒にいるの? なんで僕まで君と一緒に新幹線に揺られているの? なんで僕まで君の学会出席に付き合わされてるの?
「先生たちに学会の様子を写真に撮ってこいって言われたんだけど、それ、お前に任せるからさ。ずーっと映像録画モードでよろしく頼むわ。動画ならあとから切り取って写真にできるし」
なんで僕がそんなことしなきゃならないんだ!
「研究室のホームページに載っけるんだってよ。それに、学会の開催地は日本有数の温泉地のホテルだって話だから、お前も主人のために良さげな景色たくさん撮ってってやるといい」
僕にそんな主人愛は搭載されてないんだけれど。
「にしても、大学の研究者様はいいとこで学会やんだな。日本の学術界は豪勢だねー」
それからも沢は、僕を腹に抱えながらことあるごとに話しかけてきて、目的地までの時間を潰した。周囲の客からはかなり独り言の過ぎる青年に見えただろう。まあ僕としては、連れてこられた上に人目を気にして無視されるよりは退屈ではなかったが。
会話の内容は主に、以前に催された学祭での事柄だった。
「いやぁ、夏子先輩の漫画は、あとからもう一回読み返したけどやっぱり傑作だったわ」
そうだね。あれは僕も感動したよ。出色の出来だね。
「ウェイトレスの橋原先輩はマジ美しすぎた。あと、同時に白坂を揺するネタもできたな。お前も白坂にイタズラされたら使っていいぞ」
僕はそんなことはしないさ。僕と白坂は、君が思うよりも仲が良いんだ。白坂は案外、素直なところもあるんだよ。
「それから梅田先生の作ったケーキ、すっげぇ美味かった。あの性格からは想像できない細い造形は職人技!」
確かに、本当にお店を開いてもいいくらいの綺麗なケーキだったね。
「伏屋先生とグランドピアノはベストマッチだな。先生、普段からよくクラシック聞いてるし」
伏屋の演奏は機械的に解析してもなかなかの精度なんだ。聴いていて心地が良いよ。
「それから何と言っても最高だったのは、学祭終わりに夏子先輩が売上全部はたいて、焼肉奢ってくれたことだな。俺、あんなたけぇ肉初めて食ったよ。お前にも食わせてやりたかったぜ」
気持ちだけで十分さ。代わりに僕はね、彼女から高級潤滑油をもらったんだ。おかげで最近は足回りの駆動がスムーズだよ。
そんな会話を延々と続けた目的地への道のりは、だいたい三時間半といったところだった。沢のひんやりと冷えた手に抱えられながら、二人揃って窓からの景色を眺めた。都心のビル郡がみるみるうちに田んぼになって草原になり、緑の木々と山々が視界を埋め尽くすまでのめまぐるしい変化は、それらを初めて見る僕にとってとても興味深いものだった。何事も、いくら伝聞や映像で知っていても、直にこのレンズやディテクタを通して得る体験には到底及ばないものなのだ。異郷の地で駅から降りたとき、体内に取り込んだ空気の感触がいつもと大きく違ったことは、僕にとっては非常に難解かつ甘美な疑問として長く残ることだろう。
沢はそれから、僕をリュックへ詰めると慣れた足取りで駅構内を歩き、様々なバスが停まる大きなターミナルへと足を進めた。どうやらここから目的地の温泉街まで直接行けるらしい。集まる人々の中には大きな鞄を持っている人も結構いて、会社の出張かはたまた旅行か、そんな想像をすることもできた。
沢がバス停の前で立ち止まってスマホを眺めていると、不意に横から声が掛けられる。
「遅いじゃない。時間ギリギリよ」
沢がその声の主を認めたとき、スマホへと向けていた表情は一瞬だけ驚愕に変わり、そしてすぐに、嫌悪を含んだ納得へと移り変わった。やがて彼は叫ぶ。
「お前も一緒なのかよ!」
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